世の中的にはマイノリティを救済する流れがあるが、それは「何かが好きで、それが人と違って苦しい」という方向性だけだ。
未だに「何かが好きになれなくて、それが人と違って苦しい」には世の中はとても冷たい。
私の場合は子供が好きになれなくて、それが人と違って苦しい。ただ好きじゃないだけ。それでもすごく生きづらい。
世の中のほとんどの人にとっては、子供という属性に所属する年齢はすごく、すごーく愛くるしいらしい。
それは、鼻水を垂らしてることとか、電車内で走り回る事とか、そういうのを全部帳消しにできるくらいの魅力があるらしい。
私にはその感覚がない。一般的な「子供だから許せること」が基本的に許せない。
ただただ、鼻水垂らしてるおっさんや電車で走り回るおっさんと同じ程度の不愉快を感じる。
「子供だからなあ」という感覚は当然ある。そういう年齢なので仕方ないのは当然だ。
最悪なのは、上記のような感覚の人間がいるとも知らず、安易に子供かわいい!感覚を共有しようとしてくる人たちがいる事だ。
大抵のご家庭(の特に女性)は、自身や親族などに子供が生まれるとその子供の写真を見せてくる。
私も可愛い猫の写真みせたいし、同好の人から見せて貰ったらたぶん嬉しい。
けどそれは、同じ趣味の人と。お互いの感覚共有が事前に確認済みであるから楽しいことであって、だれかれ構わず見せたりしない。
でもなぜか子供好きの人たちは、相手が子供が好きである事を前提に、関係が薄かろうと「みーんな子供が好きだろう!」という図々しさで、無遠慮に自分の”かわいい”を押し付けてくる。
それが滅茶苦茶心が疲れるのだ。
だって一般的な家庭の子供だもん。顔面が特別優れている確率は低い。
だからほとんどの場合、普通の顔面だよ。かわいくはなくて普通。さらに一定の確率で不細工なんだよ。
それを可愛いと言わなきゃいけない。
別に、可愛いと思わないだけなのに。みんなが可愛いと思ってるものをそう思えないだけなのに。
それがつらい。
そして、もっとつらいことは
この「子供がかわいいと思えなくてつらい」という感覚には救いがない。