海外には都合3年いた。その間、向こうの学生とルームシェアをしたりもしたけど、結局打ち解けることができず、友人と呼べる存在を作ることができなかった。日本人が何人か住んでおり、彼らと時折り食事をしたりした。
それなりに歳を食っていたので、向こうで研究生活を始めようとした時には多少のスキルと知識を持っていたのだが、努力できないという資質によって、あっという間に周囲の学部生にも追い抜かれ、かといって死にものぐるいの努力をすることもできず、成長をすることができずに終わってしまった。最後に同地を離れる時には、やはり、日本を離れた時と同じように逃げ出すようにして戻ってきた。国や学問領域によって違うのだろうが、PhD未満の学生に対するお情けのような学位があり、それを貰って帰ってきた。
日本と海外での生活で二十代を失ってしまった形だが、自分の人生はこんなもんなんだろうという諦めがついたのも事実だ。学部の時には少しばかりいい成績であったことで勘違いし、自分が何ものにでもなれるような気でいた。実際にそこで着実に努力をしていれば、目指すところにたどり着けただろうとも思う。とはいえ、それができなかったことは素直に受け止めている。幸い、帰国後に滑り込みのような形で一般企業に就職し、過去の研究分野とは離れたところで普通に暮らすことができている。翌年の自分の地位を憂うことなく、また、毎月給料が振り込まれる生活というのは本当に精神衛生にとってよいものだ。
大学院をやめてしばらくは当時のことから目を背けていたが、最近は少しずつ冷静に振り返ることもできるようになった。日本にいた頃の同僚の名前を研究者の名前として見かけても、彼ら彼女らの歩みを想像して受け止められる程度にはなった。先日、コロナになる前だが、日本に戻ってから結婚して生まれた息子を連れて大学に行き、キャンパスを歩いて学食で定食を食べてきた。研究室に挨拶に行けるほどの心の整理はできていないが、こんな人生かと今は思っている。
もう日本に帰ってきてから10年以上になるのだが、当時のことを書いておく。 私は、地方の公立高校からあの大学に進んだ。大学の中でも成績は上位で、演習や卒論も上手くやっていた...
当時所属していた(日本の)大学では何の成果も出せなかったのだが、かと言って研究を切り上げることもできなかった時に、海外の大学に行くという選択肢が手元に残っていた。認めたく...
日本の大学院でうまくやれなくて、逃げるようにして海外の大学院に行った。行き先はPIになってから数年の若手だがメジャーな論文にいくつも論文をだしている教授のいる、一流ではな...
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君たちはスポンジボブやニンジャタートルで笑ってる間に僕はエヴァみてポケモンプレイしてたんだけどね!って言い返せばよかったのでは
例えば八重樫や山本昌のフォームはどんなものかとか、ビックリマンチョコのチョコを捨ててシールだけ集めて問題になった話とか、ズッコケ3人組の中ではどの話が好きかとか、同じ時...
米国生活には「わかりケア」が足りんかったと どうでもいいけど年代的にラインとかなさそうね 今なら夜ふかしツイッターは24時間眠らないのに