高齢化が進んでいるのは少産少死になったからだと言われている。
農業したり孫と一緒に遊んだり近所の同世代と喋ったりして元気いっぱいの老後なら理想だ。できれば老害にはなりたくないが、かといって困った行動をする高齢者を社会から切り捨てるのは許されない。
問題は、困った行動すら出来なくなってしまった寝たきりの老人だ。他に優生思想といえば、相模原の障害者施設での事件も浮かぶ。医療費だって馬鹿にならない、家族にも、国の財布にも負担がかかる。動けるようになる見込みもない、意思疎通も覚束無いような人は、いっそ、と思ってしまう。
安楽死の問題は難しい。自分が死ぬことを家族が決めるのはなんだか微妙だが、いざ自分がそうなってしまうともはや自分に意思決定能力がないかもしれない。臓器提供みたいに事前に決めとくならまあ……しかし家族がそれに従わない可能性もある。一時の情で延命を決めて、あとでやっぱり色々苦しくなってきた……となったとき、延命をやめる(殺す)という重い選択が家族にできるだろうか。
基準を決めるのが難しい。身体が動かなくなったらか?意思疎通ができなくなったらか?一見意思疎通が不可能な人でも、意思はあるかもしれない。意思があるということは、人格が認められるし、人権が認められる。そうなると殺すことはできない。難病で同じように身体が動かなくなった人でも、絶望して死にたがる人と、まだ希望を捨てない人がいる。そうなると同じ基準で両方の意思に沿うことは出来ない。医者は医学的なアドバイスはするべきだが、患者の意志を誘導するようなことがあってはならない。これの境も非常に曖昧だ。
私は優生思想で選別される側の頭の中がわからない。病院で管に繋がれて生きる、ということをした事がないから。しかし本当にそんな状況になったら、やっぱり既に私の意思を伝える術はなくなっているかもしれない……それはあの世の様子を誰も知らないことに似ているかもしれないと少し思う。
難しく考える必要はなくて無能な自分たちが存在していて良いのだから 経済活動に積極寄与しない老人もいて良い。それだけ ただ公共財のジレンマじゃないけど自助努力はしましょ...
これっていけにえだよね 誰かを殺したらその分何かが得られるに違いないって考え方 大東亜戦争中の日本軍がそうで 途中から味方を死なせることが目的化していた 真面目に敵を殺す...