今から3年ぐらい前に、自分の人生の幕を自分で下ろした人がいた。
家族はもちろん、仲間やファン、多くの人が悲しみ、辛い思いをした。
一ファンだった私自身は、悲しい、より、寂しい、より、どうして、なんで、と頭が追いつかなかった。
しばらく、ぼんやりとした時を過ごしていたように思う。
お葬式の映像すら、なにかのフィクションのようにどこか遠く感じていた。
私が麻痺した感覚を取り戻したのは、彼の仲間が活動を再開した時だった。
誰もがその空白の中に彼の幻想を見る。
こんなに辛いことがあるだろうか。
今でも彼と彼の仲間が歌った曲を聞くし、それ自体は生活の一部で変わりがない。
でも、いつまでも彼だけが新しくなることのない写真や動画を見つめ続けるのが辛くて、最近は少しだけ離れはじめていた。
昨日、この一連の流れを思い出すような出来事がニュースとなった。
立場は違えど、自分の人生の幕を自分で下ろすということ、その本当の理由なんて本人以外には絶対にわからない。絶対に、だ。
自死遺族は、自分が追い詰めたかもしれない、自分が救えたかもしれない、このふたつの想いで苦しむとどこかで読んだ。真相が永久にわからないから。仮に遺書があったとして、それだって、100%本当のことなのかわからない。それがわかる人は、もうこの世にはいない。
ファンは、彼らの人生に本当の意味で深くは関われないけれど、遺族と同じような心持ちになる人だっているはずだ。ファンという存在が追い詰めたのかもしれない、とか、ファンという立場ながら何かできることはなかったのか、とか。
考えても仕方ないし、時は不可逆なのに。
きっと今、あの時私が感じた虚無を感じている人が沢山いるんだろうと思う。
たぶん、まだまだ気持ちは追いつかないだろう。人によってそのスピードは違うから、周りのことを気にしない方がいい。結局自分しか、その悲しみにも苦しみにも向き合えない。
生きていてくれたらそれだけでよかったのに、というのも遺された者のエゴで、その、生きている、こと自体が難しかったから幕を下ろしてしまうのだ。
それでも、生きていてくれたらそれだけでよかったのにと、三年経った今でも勝手に思うし、昨日の出来事にも同じように感じている。
せめて、安らかでいてほしい。すべての辛さから解き放たれて、二度と上がらない幕の向こうで、どうか、あたたかく笑っていてほしい。