①高1(15,6歳)の妹が、高3(17,8歳)の姉をモデルとして想像で裸体を描いたが、まずモデルの同意がない。
創作の動機だ。妹は姉を描きたい、姉を理想の存在として描きたいとして描いている。10代の迸りだ。すばらしい。
②第三者がモデルの同意無く公共の場(学校の入り口)にそれを貼り出す。
どうしようもない社会のあらわれ。私達に社会はどうしようもない。ということを表している。
同上。
④指導者である教師がモデルからの訴えを真剣に受け止めないばかりか、「教え子のハダカなんてはじめて見た」と茶化す。
同上。誰かが何かの対象にされた時、私達は茶化す以上のことをできるのか。できたとして社会の流れを止められるのか。このブログも「何かの対象」を茶化しているだけではないか。
⑤周りの生徒が一切モデルの味方をせず、無神経に乳首や乳房に言及する。(何故か取ってつけたように姉が在籍してるのは女子だけのクラスのようだが、学校は共学だし男性教師もいる)
同上。
⑥親や親戚も呑気に写真を撮りに来る。絵の作者である妹を褒めてモデルである姉の心のケアをしない。
称賛を受けた(賞をとった)ものに対して称賛以上の何を送るべきか。送れるのか。
妹は美しいものだと考えている。美しいものを描写した作者が何を謝罪すべきか。そして10代の人間が美しいものを描写した時に謝罪する感性は必要か。
⑧モデルは恥ずかしがったり焦ったり、怒ったり「屈辱」と言ったりしているが、傷ついたり悲しんだり苦しんだりしている描写がない。一言でいうと「なんだかんだ平気そう」だ。
自分のものである身体を無断で裸に描かれ、自分の意に反して大衆の目に晒され続け、その事態を自分以外誰一人深刻に取り扱ってくれないことへ対しての、不信感や絶望が一切描かれていない。そのせいで読後感は確かに爽やかだ。
だからこそのあの完結。自分自身を自分で描く。同じ芸術家である妹の安易な美意識を完膚無きまでぶち壊す。それが芸術家としての結論。安易な人間の美意識と一緒にしないでくれ。どんなものもありえる。それが表現者に必要なものだと思う。ふざけんなよ。お前の傷は誰かの傷じゃないんだよ。
>ふざけんなよ。お前の傷は誰かの傷じゃないんだよ。 この一文、良い。