未来のミライのレビューがネットに次々と挙がっていくので読んでいたのですが、皆さんこの大前提がポロっと抜け落ちているように思います。
それゆえに大抵のレビュアーは「細田守が描きたかったものは何なのか」を想定しようとする時に大きなミスを犯します。
このことは「おおかみこども」「バケモノの子」を見れば明らかでしょう。
中でも「時をかける少女」においては「ケモノ」や「ショタ」への執着心が完全に押し殺されています。
「時かけ」において、細田守監督は自身の執着を完全に押し殺し、最大公約数的な作品作りにつとめその結果として商業的・文化的成功を収めることになります。
その影響により彼は「大衆のための作品作りが出来るアニメ監督」という評価を背負わされることになります。
彼が「時かけ」のあとに制作した「サマーウォーズ」という作品に対して、あまりに大衆向けであることを目指しすぎていて衆愚政治のような匂いが漂っていると感じたことは無いでしょうか?
同時に「サマーウォーズ」の中では、「時かけ」では押し殺されていたはずの「ショタコン」「ケモナー」という氏の2大性癖がスクリーンから見え隠れするシーンが幾度もあります。
この頃から、細田守作品においては「大衆向けの成功」と「個人的な性癖への執着」が熾烈なぶつかりあいを始めます。
「未来のミライ」を評価するのであれば、この事からは絶対に目をそらしてはいけないでしょう。
むしろ、そういった2つの相反するようでありながら混ぜ合わせることが完全には不可能でない願望をどうにかして同時に満たし自分も他人も幸せになれる場所を目指したいという彼の中にある葛藤・願望が強烈に爆発したのが「未来のミライ」であるという見方をすることがベストな可能性すらもあるわけです。
「未来のミライ」について語っておきながら「ショタコン」「ケモノ」といった要素に触れていない文章は、物事のごく狭い面だけしか見ておらず片手落ちもいい所です。