昔から独り言が多い方で家にいると常に何事かをつぶやいている。特に多いのが「帰りたい」「疲れた」「眠い」「だるい」などのネガティブなワード群なわけなのだけどこの間ふとつぶやいた言葉に「無限に休ませろ」というものがあった。完全に無意識の発露でありなにかを意識してつぶやいた言葉ではなかったが、自分で言っておきながら自分は何を言っているんだろうという、まあよくあることかもしれないが、一度口に出した言葉の意味を自分の中で反芻していた。確かに無限に休みたいという思いはある。ありすぎるほどにある。無限に休みたい。休めるものなら無限に休みたい。でもそれって結局死んでるのとおんなじじゃんと、それもまたまったく新鮮な考え方ではないけれど思ったものは思った。死んだら死ぬほど休めるから、生きているうちは可能な限り動くべきだ、というのはこれもまたよくある言説で、結局俺ごときが思いつくような考えなんて他人の模倣でしかない。そもそも自分というものはどこに存在するのだろうと思う。結局自分の話す言語や文体やしぐさやなんやらコミュニケーション手法なんてすべて他人のマネではないか。言語が思考を規程するというのもよく聞くことだし、思考の流れも含めて俺の考えなんて全て先人が規定したものの模倣なのではないか。っていうと決定論ってやつになるのだろうか。ラプラスの悪魔じゃん。でもあれは量子力学の世界で否定されているってのも聞いた。なにがなにやらわからんが。大学時代に久々に高校の同級生とあったとき波動関数について3時間ほど語られたて辟易とした覚えがあるが、なんかそういう変数多すぎなものについて語られてもふわっとしすぎて全然イメージが湧かない。俺はイメージが苦手なので、できれば一日中本物のなにかを触っていたいな思う。phaあたりが言ってたような気がするが、やっぱり手に触れられるものを触れるってっとても人間的に正しいと感じる。あんまり形而上的なものをうんうんうなって考えたってうつ病になるのが関の山じゃないかしら。わからんけど。ただ、こういった無責任な言説はやべえ糞眠くなってきた眠い寝るおやすみ。