人間は自分が属するコミュニティの価値観に従って生きている。若いうちはファッションに気を遣い、J-POPを聞いて周囲と共通の話題を作る。社会に出れば効果なスーツや車、時計といったステータスで自分の社会人としての価値を高めようとする。『若者の○○離れ』はつまりはこうした構造が働いていない状況に他ならない。その大きな原因はネットの普及だろう。かつて価値基準はメディアや上司に一方的に押し付けられるものでしかなかった。そこから脱することが不可能なわけではないが、従わなければコミュニティ内での自分の価値を損ねかねないリスクがあった。だが現代の人々は、ネットを介して簡単に異なる価値観に触れ、コミュニティに属することができる。「そんなものに金を払うのはバカらしい」と価値基準への否定を共有できるわけだ。
誤解してはならないのは、若者に与えられているのが単なる別の価値観ではなく価値観を選ぶ機会である、ということだ。勿論、ネット上の価値観を鵜呑みにする情報弱者が存在しないわけではない。だが、ネット上の価値観にはかつての構造のような強制力は無いのだ。早い話が、ユーザは嫌ならコミュニティを去って別のコミュニティを探すことができる。価値観の良し悪しが、そこに従うことで人生が良くなるかにあるとすれば、強制力の無い場こそが価値観の淘汰のために健全であることは疑いようはない。強制力を失うと同時に選ばれなくなったのだとすれば、それはその産業が付加価値に甘えて本質的な価値を提供していなかった産業だと考えるべきだろう。デジタル時計が出ればダサイと言い、携帯電話が普及すれば時計は身だしなみだと言い張る。そんなことはもう通用しないのだ。
とは言え現代社会、あるいは現代社会の行き着く先に完全に価値が純化された社会があるとも限らない。むしろ近年、新たに生まれた商売の中には偽りの価値の上に成り立っているものも多く存在するだろう。我々は『若者の○○離れ』を教訓に、自分の仕事が本質的な価値を生み出しているのかを問い続けるべきなのかもしれない。