2017-06-20

ネットを見てていつも思う

日常会話の中でざっくりしたゆるい定義の話をしてるとき例外ばかり語って定義に完全性を求めるのってやっぱりコミュ障なんだろうなと。

完全な定義などないのに、「お前の定義は完全ではない」というのが反論になると思っているらしい。

定義において重要なのはそれが日常生活言語による伝達という行為において十分通用するかどうかという実用的な視点であって、それが完全か不完全かというのは学術的な文脈でもなければ二の次というか、そもそも完全はありえないのだからそんなことを考え始めるのは哲学者に任せておくべきで、一般的対話相手にそういった態度を求めるのは不毛だと思う。

りんごは赤い」という何気ない会話に対してオタクは「赤くないりんごもある!」と言って勝った気になる。自分は誰もよりも頭がいいと思っている。

しかに赤くないりんごもあるが、こういう発話において意図しているのは、「日本で売られているりんごはだいたい赤くて、りんごといえば日本では一般的赤色イメージが共有されている」程度のゆるい話。その定義においてはもちろん「赤くないりんごもある」という例外も両立可能

オタクはいつも完全性を相手要求してくる。「お前の定義は完全ではない!」→「したがって俺の勝ちである!」

これって要するに対話拒否していて、現実的に地に足のついた話をしていこうという意思がないってことなんじゃないか

今日は晴れだね」

「晴れの定義を言え。今見えてる空には雲があるぞ」

「雲がまったくない状態はもちろん晴れだけど、雲が多少あっても晴れなんだよ」

「じゃあ晴れとくもりの境界線はどこになるのか。空の何パーセントが雲に覆われればくもりなのか」

日本では9割以上が雲なら曇りというらしいね。じゃあ今日は晴れだ」

「それはおかしい。俺は向こうの空が快晴でもこっちは土砂降りという経験がある。お前の定義だと空に50%しか雲がない土砂降りでも晴れということになり得る。それにお前は今9割などと言ったが、雲の量が89.9%のとき晴れで90.1%ときくもりだというのは感覚的に考えて明らかにおかしい。おれはその違いを認識できない自信がある。お前は馬鹿だ」

「じゃあ今日はくもりでいいや。明日もくもりだろうし、これから永遠にくもりだろう」

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