羽海野チカさんと、神谷浩史さんと杉田智和さんで、夜にお台場のガンダムを見に行ったという話を、声優お二人それぞれのラジオで語られたのを聞いたことがある。
大人の自由を得た頃の、若い美しさだと思った。ほかならぬこの3人、というのが当時の自分にはぐっときた。
これが美しい記憶だと思うのは、自分にもそういう光景が残っているからで、この人たちの中にも美しいものとして残ったらいいなと思っていた。
神谷さんとそう変わらない年齢の自分は、そうやって時間を共有していた友人たちがそれぞれの家庭をもち、“仲間”のような過ごし方はしなくなった。
それが異性だとなおさら友人づきあいも簡単ではなくなり、年に一回、あるいは数年に一回、家族ぐるみで会うていどになった。
友人たちが責任ある人生を進んでいることは喜ばしいし、自分は自分で気楽にやっている。
ただ単純に、人と会い、誰かと会話し、人と一緒に出かける時間は減った。一人で暮らして、一人で行ける範囲に出かけて、一人で入れるお店に入る。
余暇時間の大半はtwitterで知り合った人たちとスマホでおしゃべりすることに費やす。(ネットがあってよかった!)
念のためにいうけれど、幸不幸の話ではない。
人が人と一緒に生きていくというルートからちょっと外れてしまったせいで、人と一緒に生きる時間が圧倒的に少なくなり、あれれ聞いていた話と違うなあ、とは思っている。
思っているけれど、来し方を振り返れば、まあ仕方ないし、納得もしてる。そうか、自分は「取り残される側」だったのだ、と。
神谷さんが引っ越して、ゲームを処分して、杉田さんたちとの交流がぱったり途絶えたときに、「ああ、これは」とぴんときたラジオのリスナーは多かったと思う。
そして、とても失礼な感想かもしれないけれど、残された羽海野先生は、お台場ドライブの光景を覚えているのかな、とそのときに思ったのだ。
本当に勝手な想像で申し訳ないけれど、きっと一人で生きて行くんだと思っていたら、まんまとそうなった自分は、羽海野先生もそうだったんだろうなと勝手な共感をしている。
じつは『3月のライオン』は1巻で示されていた主人公の孤独が恐ろしくて、その後カバーに描かれた人たちの姿が温かいことも恐ろしくて、2巻以降に手を伸ばせずにいるんだけれど、いつかは読むつもりだったから、この機会に残りをまとめ買いしようと思う。