71年前の今日のヒロシマは、美しい伝統的な街並と維新後の情緒豊かな建築物の融合した活気溢れる都市だった。
71年前の今日から三ヶ月後のヒロシマは、その何もかもが失われた、根こそぎに生の消されたゴーストシティーだった。
今日のヒロシマは、いろんな想いと痛々しい傷痕を抱えながらも活気溢れる平和を象徴する都市によみがえった。
この度の訪問の目的は、(原爆)投下を批判するするものでもなければ、謝罪をするものでもない。
そうはっきりとおっしゃった。代弁者を通して、だ。
ならば、その目的はなんだろうか。
共に平和を祈ろう、か。
過去のことは水に流そう、か。
ミスター・日本は自ら出迎えに、いや、当日は、ミスター・アメリカのセレモニーに参加させてもらうそうだ。
なぜミスター・日本は、国民の気持ちをくんだり、声を聞こうとしないのか。
なぜ彼は、「いいえ、それは困ります」、と言わないのか。
「その一線は、私たちの心の深い所にあるから、越えてはならないものです」、と正当な態度を示してくれないのか。
こっちは悪くない。謝らない。と、きっぱり事前に宣言されて、それでもどうぞどうぞと手招きすることが、
今後の日本の政治的地位を決定的に変えることを、ミスター・日本は落ちついてちゃんと考慮したのか。
日米間だけでない。アジアの近隣諸国に対してもだ。歴史はファクトと関係のない所で処理され作られていく。
第二次世界大戦の決定的な悪者が自分たちではなかったということを今一度はっきりさせておきたい、というアメリカ大国の切羽詰まった現状をなぜ、見極められないのか。
それから、ヒロシマへはぜひ任期終了の後プライベートの観光で、自費で訪れたいことを。
ただ、私はミスター・アメリカの電話番号もメールアドレスも持っていないし、そこまで親しくない。
ミスター・日本が代弁してくれたら心強いのだけど、彼とも私は親しくない。
けれど望みは捨てたもんじゃない。
記者会見は行われるのだろうか。
もし行なわれるのだとしたら、我らが誇る有能で国家に依存しないジャーナリストに一丸となっていただいて、
「今回の訪問目的が、『(原爆)投下を批判するするものでもなければ、謝罪をするものでもない』、と
代弁者を通して伝えられた私たちは今たいへん混乱している。あなた自身の言葉でそれを発してくださることは可能だろうか」、と。
断られたら、日本人は目が覚めるだろうし、
受諾されたら、ミスター・アメリカはその血も涙もない発言をした政治家として、後世まで歴史に刻まれる。
歴史はファクトと関係のない所で処理され、強い者にいいように作られていく。
それでいいのか。