2015-03-03

てにおえ

僕にとってそれは格安物件だった。事故物件ではないらしい。

「一階で日当たりも良好。絶好の条件じゃないですか」

僕は入試合格して、憧れのひとり暮らしをするべく

東京中の不動産屋を渡り歩いていた。

部屋探しに疲れていた僕は、最後不動産屋で

ダメ元で物件を探していて見つけたのだ。

「決めました。僕、ここに住みます


かくして入居が決まったその日、僕は缶ビールでひとり祝杯を上げた。

本当に不思議だった。事故物件ではないのにどうしてこんなに安いのか。

住んでみると極楽のものゴキブリ一匹居やしない。

こんな部屋なら、まだ居ないけれど恋人を呼んで

いちゃつくなんてことが出来るだろう。


そんなわけで我が身の幸福を噛み締めながら隣近所に挨拶に行く。

菓子折りを配り歩きながら挨拶を交わす。隣人たちもいい人たちばかりだ。

トラブルが起こることはないだろう。僕が抱いていた東京イメージとは大違いだ。

多分僕は平山夢明を読み過ぎていたのだろう。そう納得することにした。


ある日、高野寛を聴きながら春の陽気に

わずうたた寝をしていると、頬を舐められた。

起きてみたところ、僕は我が目を疑った。

猫が群れている。十匹、いや二十匹は居るだろうか。

「悪いけれど、ここはペットを飼っちゃいけないんだよ」

そう言って追い返そうとするが、猫たちはでんと座り込んで動こうともしない。

僕は無視することにした。アジの開きをフライパンで炙って食べる。

猫たちは美味しそうだな、という表情でこちらを眺めている。

へえ、猫にも表情があるんだ、と思いながら

僕はアジの開きとほうれん草のお浸しを食べた。


入学早々サークルコンパで仲良くなった友達を部屋へ招いた。

友達は入るや否や、「悪い、おれ帰るわ」と言い出した。

何が気に入らなかったのだろう。

僕の方に失礼があったのかもしれないと謝ると、

そうじゃないんだ、と彼は言った。

増田。お前、猫飼ってるだろ」と。「おれは猫アレルギーなんだ」

「飼ってないよ」

「いや、あの部屋は猫を飼ってる奴の匂いがした。妙に魚臭いし」

アジの開きを焼いたことで匂いが染み付いてしまったのだろう。

僕はそう解釈することにした。


ある日、部屋を出て大学に行こうとすると見知らぬ老婆に声を掛けられた。

「あんた、あの部屋の主なんだね?」

「そうです」

「やっぱり。近所に住んでるんだけれどさ」

挨拶をすっぽかしていたのかと思い謝ると、

「そうじゃないんだよ」と老婆は言った。

「あの部屋だけは止めときな」

「どうしてですか?」

老婆は言った。「あの部屋に住む人間は、

全員失踪しているんだよ。ひとりの例外もなく」

それで家賃が安いのか。そう考えれば得心が行く。

「あと猫が大量に集まって来るだろう」

「そうですね」

「あたしゃ、このふたつには関連があると睨んでる。

とにかく、さっさとあの部屋を出て行きな」


そうは言われたものの、すぐにこんな好条件を

捨ててまで住める場所が見つかるわけがない。

相変わらず寄り集まってくる猫たちに情が湧いたので、

猫缶を買ったことがあった。カツオ風味だ。

二十匹は居ようかという猫たちが真っ直ぐ並んで、

一匹ずつ少し口に含んでは去っていく。

人間みたいだな。そう思っていると、不意に声が聞こえた。

「ここはおれの部屋だったんだぞ」

声は明らかに猫がいる方角から聞こえた。

猫は一生に一度だけ人語を話すというが、まさか、ね。


ある日、パソコンキーボードタイプしようとして僕は我が目を疑った。

爪の先が尖っていたからだ。

すぐに爪切りで爪を切る。こんな爪が生えて来るなんて、

体質が変わったのかな。

変化はそれだけではなかった。

から長いヒゲが生えて来るようになって来たのだ。

そう思えば、掌も心なしかぷにぷにと柔らかくなった気がする。


これを書き込んでいる今、ふと鏡を見ると耳の先が尖っていたんだ。

僕は住人たちが失踪した理由が分かったような気がする。

僕も彼らの仲間入りをする日が来るのだろう。

そんな時は、次にやって来た住人に言ってみようかと思ってるんだ。

「ここは僕の部屋だったんだよ」と。


BGM:高野寛「てにおえ」

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