如月小春さんにお会いした。
[中略]
と伺うと、
「ええ、してないんです。テレビって即、意見を言わなきゃいけないでしょ。あれが、わたしにはどうしてもできないんですよね」
ははあ、そうだったんですかと、感心した理由は、実はわたし自身がそうなのである。7年もテレビの仕事をしながら、いまだにこのリズムに乗ることができないのは、よほどのアホか特異体質かとしばしば自己嫌悪に陥ったものだけれど、この才色兼備な如月さんもそうだったと聞いて、安心した。
たとえば本番中に、突如、「あなたはどう思いますか」などと意見を求められたとする。黙っているわけにはいかない。何か言わなければ。しかし適当な言葉が浮かんでこない。あせったあげく、つい、どうでもいいせりふを吐いてしまう。
「やはりなんと言ってもこのような事件は二度と起こってほしくないですね」
とか、
「まあ、この問題は、若い人たちにも真剣に考えてもらいたいものだと思います」
そしてけろりと笑顔に豹変し、
しまった、なんと意味の無い場つなぎ的、常識的、いい子ぶりっ子的、余計な一言を言ってしまったのかと後悔するがもう遅い。
それならば、自分はなんと感じたのか。何を言えば意味があったか。番組が終わって「お疲れさまでした」と挨拶をして皆と別れ、家に帰って一晩寝て、翌朝起きてご飯を食べて家を出て、電車に乗って、再びテレビ局に着いてようやく意見が見つかる場合がある。
「昨日のね、あのテーマについてなんだけど、じっくり考えて、思ったの。あたしはこう感じたんだなあって」
スタッフの前で前日の件を蒸し返す。すると、あきれた様子で、
「そう思ったなら、なんで昨日の番組の中で発言しないのさ」
そんなこと言われても、その時は考えがまとまっていなかったのである。
テレビはリアクションが勝負である。出演者同士の会話が丁々発止、見事なキャッチボールとなって意見が飛び交い、その時の表情をうまく画面に映し出すことができたら、その番組は上々の出来と言える。しかし、そのスピードが年々アップして、もはや間初を入れぬ勢いになってくると、もしそこに、たった5秒といえども沈黙の時間が流れでもしたら、とたんに「どうした、どうした」と、出演者もスタッフも、視聴者でさえ、トラブルが起きたのかと心配しはじめる。テレビ画面内での5秒の沈黙は、普段の5秒の数十倍の長さに感じられるのである。
ところが考えてみると、日常の生活で会話に間ができるなんて、しょっちゅうのことである。
画面上で言葉が詰まってもあわてず騒がず、「うーん」とうなって頭をかき、「そうだなあ」とつぶやいて目をこすり、腕組みをしたまま5分。そしてようやく「やっぱりわかんないです」。
こういう大胆なことができるようになれば、わたしも大成するのにと思う。
食事中、食卓の会話がふっと途切れた時のことを、フランスでは「天使が通る」と言うそうだ。なんと優雅な言葉でしょう。決して「しらけた」とか「気まずいムード」とは思わず、その沈黙の時間も有効利用してしまうフランス人のセンスには恐れ入る。
それほどしゃれた時空間とはいかないまでも、友だちとしゃべっている最中に数分の沈黙が続くことはいくらでもある。それがために二人の関係にひびが入ったり、険悪ムードが漂ったことは一度もない。