2011-12-20

高校の同級生との飲み会で、お前はブサイクだとなじられた

 ひさしぶりに会った友達で、同窓会みたいな感じでウキウキして参加した。

さびさという事もあり、昔の思い出話に花でも咲かすかという所だったが、なぜかずっとなじられていた。 

 お前はブサイクだ、毎日鏡を見て死にたくならないか お前はつまらない しょうもない と。

仕事の話をすると、仕事についてくだらないと言われたり、とにかくひどい有様だった。全然おもしろくない。 

 なぜ、久々に会う昔の友人に対してそういう事を言いたいのか、自分にはとても不思議だった。 

振り返って考えてみると、ようするに中学時代のノリでお互いを卑下し合ってダメ人間遊びをしたかったのだと思う。 

 

 確かに、自分も昔はそういう、リア充爆発しろみたいなノリで自虐っぽく笑いを狙ったような会話をよくしていた。 

社会経験を重ねていくうちに、自然とそういうのはつまらなくなったし、言わなくなった。 

 なぜか? 

社会の中で競争をして、少しでも自分を良く見せようと努力してしなければならない状況で、自分いかダメかを語る事は何の価値もない事を知ったからだと思う。

 客観的に自分自身を見つめると、そんなにダメではない。 それなりの評価を得ることもできるし、慕ってくれる後輩も彼女もいる。 

なにより、高校を卒業してからは他人からブサイクだ」と言われた事が一度もない。 

 そんな環境で自ら進んで「僕はブサイクでアホウです」と言って回る必要など皆無なのだ。  

なんなら、真顔で「僕は高い能力を持ってます」と言ってのけるくらいの度胸とプライドもある。 

 地元でずっと生きていくというのは、ずっと変わらない顔ぶれの人間達にずっと変わらないイジラレ方をするという事だ。 

おそらく、自分をナジった友人は、ずっとお前はブサイクだとイジラレ続け、新しく入った学校職場でも「こんにちはブサイクです」と言ってるんだろう。 

中学時代あだ名でいまだに呼ばれ続けているのがその証拠だろう。

 自分を卑下して、それが一生続くのだという価値観で、そういうノリが一生楽しいと思って、自分に対しても「同意」を求めて自虐遊びをしかけてきたのだ。

自分は、昔の侮蔑が混じったようなあだ名の数々は忘れたし、そのあだ名自分に対して言ってくる人もいなくなった。 

 

 地元が好きなのはいいことだと思う。でも、地元の中でずっと生きていくという事はアリ地獄に自ら身を投げるようなものだ。 

その友人だけではなく、多くの飲み会参加者はそんな感じだった。  

 この人達とは、同窓会で会うくらいの関係でいいやと心底思った。 

着地点の見えない空に飛び出す勇気はあるが、足場が見えるアリ地獄に身を投げる度胸はない。

 新しい価値観を得ようとするその気持ちが、可能性と呼ばれるものだと自分は考えている。  

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん