2014-04-04

「うまく言えない感」と哲学芸術

哲学は「うまく言えない」ことをうまく言おうとする過程で生じるものだと個人的には感じる所が多い。

物事を明快に言い切る言論人(評論家コメンテーターさらには評論的なブロガーまで含む)の中には

「うまく言えた感」に酔ってるだけで、その先を追究しようという気概を感じないこともあるが、

哲学者というのは概して「うまく言えない≒うまく分からない」感じをどこまでも追究するタイプ人間が多いと思う。

それはある種の不器用さとも関係しているのかもしれない。教科書的ないしは常識的スパッと説明とされても、「なんか違うんだよなぁ」という引っかかりを感じてしまうような。

そんな不器用さがある。かのエジソン小学校で「なぜ1+1か」に躓いたというが、創造的な人間にはそんなある種の不器用さを抱えた人間が多いのかもしれない。

多くの人は「うまく言えない」「分からない」と思ったらそこで踵を返して、ウンウン唸って考えずに済む明々白々なこと(と思い込んでること)だけを扱おうとする。そのほうがラクと言えばラクだ。

それが出来ないのが哲学者の苦悩であり芸術家の苦悩なのだと思う。

あるいはあえてしない。あえて理解インコースギリギリを攻めていくスタイルをとる人もいる。全く分からないことは分からないとキッパリ捨てられるが、

分かりそうで分からないことというのは妙に気になってしまう。だから別にスルーできるけどあえてそのオンザエッジに留まって苦しみ続ける。そういうタイプ哲学者もいるに違いない。

とにもかくにも、哲学者はうまく言わないといけない。うまく言えないことをうまく言わないといけない。そこに哲学ジレンマがあるように思えてならないのだ。

別に一般人に分かりやすく言う必要はない。一般人平易な言葉で解説されないと理解できない。専門知識がないのだから当然である

平易な言葉しか理解できないから平易な言葉で話せる人だけが一般人の目には「理解している人」であり、専門用語ばかり並べる人は「よく理解してないことを

訳の分からないまま回りくどく語っている人」に見えてしまう。それは仕方ないのであって、専門家がそんなことに気配りする必然性はない。

むろん、啓蒙活動する哲学者もそれはそれで社会的には意義があるだろうけれども。

話がそれたが、哲学者一般人に分かりやすく言う必然性はないけど、他の専門家には分かりやすく言う義務がある。

いくら分かりにくいテーマを扱っているからと言って、何を言っているのか分からない言葉で語ったのでは相手にされない。

そこに哲学者という仕事の難しさがあるなと素人目には感じるし、インコースギリギリを攻めずにいられない一部の言論人にしたって

そうした苦悩とは無縁じゃないのだなと勝手ながら同情してしまうことが多い。

芸術にしたって同じだろう。哲学既存哲学の延長線上に新たなページを付け加える行為であるが、

芸術に至っては容易には消費されない新鮮さが求められる。そこに独特の難しさがある。ネットで簡単に違法アップされた音楽が聴ける時代である

1度聴いて満足するのではなく何度も聴きたくなるような新鮮さ、それもCD音質で聴きたくなるような魅力がなくてはならない。

私も音楽制作現場にいて、コレクターの所有欲に訴えかけるようなプロモーション戦術に手を染めたこともあるが、

そういうのは芸術としては糞くらえだと思う。本当はきちんと価値のあるものを作りたい。私だけでなく芸術業界の人はみなそう思っているはずだ。

価値あるものとは繰り返すが新鮮さのあるものである

新鮮であるには「奇抜すぎず普通すぎない」、「しかも分かりやすい」、そのバランス感覚を常に維持しなくてはならない。

芸術業界には日常生活からそのようなギリギリスタイル暮らしている人も少なくない。着ている服のセンスも奇抜すぎず普通すぎず。

そんな絶妙バランス感覚を日々の暮らしの中で養っているのだ。そんなギリギリバランスの中で、

普通じゃないのに分かりやすい」着地点を模索していく。どうすればうまく言える(表現できる)のか。

うまく言えない感とぶつかり闘いながら、胴体着陸も辞さない構えで、何度も着地し、一番いい着地点を探し出す。

いわゆる「芸術家」に限らずとも、芸術家肌の人間というのは、そのような延々とした作業をしているものだと思う。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん