はてなキーワード: 三島由紀夫とは
一冊でも読めばわかるけど、
何だったか冒頭で玻璃の美しさを例えたか玻璃に例えただかした文章読んでしびれたわ
たまに男にこういう奴いない?
要は三島という権威持ちだしたら女叩くのに箔が付くと思ってるだけのヒスだから
過剰な攻撃性、過度の自惚れ、感情的自覚の無責任な放棄、不適切な優先順位付けによる落第した社会性
そんなところ
こういうのを「構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義」(「女嫌いの弁」)と余す所なく表現した三島由紀夫の言語能力の高さは凄いと思う
旦那氏のために育児メモを作ることにした📝普段見れない分わからないこともあるだろうから、任せた時に困らないよう作成✍️ちょっとずつ更新していくぞ〜!
https://x.com/cheetaro3/status/1797966506632032371?t=OsGyBotumc_d6o8W8W8WKA&s=19
普通に解りやすいマニュアルメモだし、育児で寝不足フラフラであろう時に偉いとしか思わなかったので、三島由紀夫引っ張ってきて揶揄しているチー氏のツイートがバズって1.2万いいねを稼いでいるのが意味が解らなくて驚いてしまった。
一体何が男のしゃくに触ったのだろう。
「セクシー田中さん」事件について、日本テレビが悪いことは大前提として、よくわからないのは、そもそもの問題である、「原作がドラマで大幅に改変された」ってそんなに苦痛なのかな?っていうこと。
昭和時代の映画も、小説や漫画の原作を「改悪」したひどい映画はたくさんあったと思うけど(三島由紀夫『金閣寺』映画化した『炎上』とか)、それで原作の評価が下がったりはしていない。今は、それらの映画は完全に忘れ去られていて、原作ファンにとっても笑い話になっている。現在でもそういうスタンスをとる作家や漫画家は普通に多くいる。
日本テレビは確かにクズオブクズなんだけど、そもそも原作を改変されてそんなに苦痛なのか、という根本の問題に今ひとつ共感できない自分がいる。
今日はエスカットショップで散髪をして、けんぷくに相談に行ったが、言動がどんどん、ざちゃんになるので、お前はざちゃんだろうというような話になった。5時から大雨になったが
けんぷく前を移動している人を見る限り、変な人がいるような感じはないように思う。
部屋に帰って、濱田浩輔の、パジャマな彼女とかを検討していたら、2巻にかなり残酷な表現がみられるように思う。
ざちゃんに何を言ったかと言うと、とにかく、1年前から、人工知能の光線が寝ている間に入ってくるから、 それを遮断する、 鋼鉄か何かを窓に貼るしかないだろうという趣旨の話。
昔はアベノマスクを使っていたが、 5月10日に、小茂根4丁目で買ったダイヤモンドマスクがそれよりもよくて最近はよく使用している。
所沢と書いたトラックを最近よく見かけるのと、そこに、なんか、 いま東京で流行りの、クソ動画で動いているのではないかと思われる、アンドレヴェイユみたいな顔のトラック運転手とか
少なくとも薩摩趣味の頃は女を差別し排除した男集団は、穢れたつまらぬ女と恋愛など出来ない美少年様との恋愛こそ至高って感じでホモだったのに、いつ頃から同性愛排除になったのだろう。
三島由紀夫は日本を代表する文豪・憂国の士といわれるが、過大評価され過ぎだと思い、所感を書いておく。
三島由紀夫はかなり多作な作家で、小説・戯曲だけでおそらく200作を超える。
新潮社の三島由紀夫全集はバカデカサイズの全42巻からなり、通読した人間は三島の専門家くらいだろう…専門家すら怪しいが。
三島由紀夫といえば金閣寺。少し落ちるものとしては仮面の告白、潮騒、美徳のよろめき、鏡子の家、憂国、豊饒の海がある。
私は三島由紀夫が好きで、小説だけでなく戯曲を含めて結構読んでいる方だと自認しているが、若者がつまらぬ観念を語るだけの作品、あまりに紋切り型の恋愛作品が多すぎて、読むのが時間の無駄・苦痛だ。
2021年に『三島由紀夫vs東大全共闘』という映画が公開された。三島由紀夫 = 憂国の士という共通認識を前提とした筋書きのようだ。
しかし当時(1969年)の共通認識は「ややこしい人がクビを突っ込んだな」である。
当時の三島由紀夫はボディービルディングに熱中したり、鍛えた裸を披露するために自分の映画や写真集を作ってみたりと、脇道にそれる活動が多く、作家としての存在感が薄らいでいた。
それどころかいい年したおじさんなのにUFO・超能力の探求にハマったり、ハタチそこそこの若者を誘って私兵部隊を結成したり(後に市ヶ谷駐屯地に突入した楯の会である)と、お騒がせキャラクターを確立していた。
つまりUFO・超能力に興味があり、自分の映画・写真集をつくり、若者を集めて軍事訓練を積ませている40過ぎのおじさんが、ソ連・マルクス主義の嵐が吹きすさぶ東大に入って論戦しようというのである。いくらなんでもツッコミどころが多すぎるよ。
当時は同性愛・天皇礼賛主義への偏見が強かったこともマイナスイメージを形成しており、三島由紀夫は"へんなおじさん"であった。
散々語られていることだが計画性がなさすぎる。拡声器すら用意していなかったとは…。
偉い人を人質にとって吠えれば自衛隊が動くと思ったのだろうか。組織とはそのような属人的なものではない。
ずさんな計画のわりに、割腹自殺の準備だけはキッチリしていたらしいが。
派手に割腹したかっただけでしょ。割と当たっていると思う。三島由紀夫がエッセイや映像インタビューで度々語っているお気に入りのエピソードに、終戦の日に夏の静かな日差しを見ていると自分は"生き残ってしまった、後に残されてしまった"という強い感覚を持ち、それ以来死に場所を探しているという話があり、その"死に場所"を選んだということなのだろう。
三島由紀夫はエッセイストとして優秀だとおもう。"高貴なる野蛮人たれ"という言葉を残した。上品で、教養があり、裕福な人間は一見洗練されているようではあるが、実は個性がなく退屈で、柔順で、脆弱な人間なのである種の誇り高き野蛮さを備えておくべきだという三島由紀夫の主張。この主張は私の人生の指針にもなってきた。
ただ文豪・憂国の士というのは過大評価であり、観念に引きこもるあまり最期は周りに迷惑をかけて死んだへんてこ作家、くらいが妥当な評価だと思う。
https://tree-novel.com/works/episode/07464104c8c86babd54079b4a15575d7.html
ペンネームが真面目につけたと思えない、という理由で減点対象になっているからだ。
ということで真面目につけていないだろうペンネームでぱっと思い付いたのを挙げていく。
→エドガー・アラン・ポーのもじり
→博多の方言で「人の考えないようなことを言う人」のことで、作品を読んだ父親にそう言われたから
→編集会議が行われていた修善寺へ行くのに三島駅を通り、そこから見えた富士山の白雪が印象的だったから
→年齢で数字を増やしていたがさすがに止められたため
→幼名の「「升」と野球をかけて
他にもあるだろうが、いったんはこれくらいで。
何より江戸川乱歩賞でこの講評を出したのがすごいと思う。
鳥山明が死んだ。
神田沙也加も死んだ。
安倍晋三も死んだ。
三島由紀夫も死んだ。
ウチのペットも死んだ。
みんな死ぬべきではなかった。社会に対して、他者に対して、影響力を持った人物だった。生きている意味があった。うちのペットには何の罪もなく、ただただ可愛かった。
特に何の社会的な価値もない自分は生きている。あまりに偶然であり、特に必然性もない。ただ単に、偶然、何の意味もなく生きている。
生かされている理由があるわけでもない。ただの偶然だ。その辺に虫が這っているのと同じ現象だ。
自分が生きていることが(別に価値がないとか無駄とか言っているわけではなく)本当に、夢幻のように思えてくる。もしかしたら、誰かの古い記憶をすごくリアルに追体験しているのかもしれない。
自分が見ている光景、感じている感覚、嗅いでいる匂い、感じている感情は何の形にもならず、誰にも伝わらず、ゆえにシュレディンガーの猫のように、社会的には存在しないも同様である。
だが胸が締め付けられる。ただただ胸が締め付けらるのである。いや、しかし、それが生きていると言う事だなあ、こんな気持ちを、死んだ者たちはもう感じることもないのだ。