はてなキーワード: 相関関係とは
いやもうその通りなんだよ。
もちろん私立だってなんかあるところではあるだろうけど、発生率が段違いっていうかさ。もちろんゼロではないわけだけど。
単純なリスク回避の問題としての私立というのは選択肢として充分にあり得るわけだ。
ところがメディアレベルではこのことはタブーなんだ。(唯一サバンナの八木だけがこのタブーを犯せる)
つまり成績や、もっといえば職業との粗暴度や犯罪発生率の相関関係が明らかになってしまう。
ここに差別性が生まれる余地があるから。(だって犯罪発生率の高い要素を満たしている人間が善良な人間であるケースは山ほどあるからね。犯罪発生率80%の分類グループがあったとして、そいつらを100%犯罪者扱いすることは残り20%には濡れ衣なわけだ)
だからと言って相関関係がないかと言うと、それはもう確実にあるわけで、だったらリスクの少ない方を選ぶのが生きるコツなわけで。
生きる知恵として大いにアリだと思う。
ついでに、昔BUBKAかGONか実話ナックルズか忘れたけどその辺の雑誌が、「職業別犯罪発生率ベスト20みたいの」を調べて掲載しようとしたらストップがかかったらしい。
元ネタ:http://diary.lylyco.com/2009/03/post_276.html
あってもいいけれど、なくたって全然構わない。そういうものは多い。
積極性というのも、そうしたもののひとつだと思う。もちろん、子供に積極性を持たせることができればいいこともあるかもしれない。けれども、せいぜいが「かもしれない」程度のものである。むしろ、役に立つのは積極性なんかよりも「生きたいという気持ち」ではないかと、個人的には思う。そして、「生きたいという気持ち」と「積極性」は必ずしも相関関係にあるわけではない。積極性なんかなくても「生きてみよう」と思うことはできる。にもかかわらず、いたずらに「積極性を持つことは大切だ」などとやるから「積極性がないから死にたい」だとか、おかしなことになる。むしろ逆効果ではないか。
教育で「積極性」を植え付けようとすることは、それらを「持つべきもの」と規定することになる。つまり、「それでも積極性を持てなかった人」は、ますます委縮することになるだろう。教育が100%うまくいった例は、たぶん、ない。つまり、必ず落ちこぼれる子供は出る。必ず、だ。ぼくはそれを恐れる。やる気があったり、積極性があったり、自分には生きる価値があると思い込んだりできる人は、確かに幸福かもしれない。けれども、そんなものは心のオプションにすぎない。やる気がなくても、積極性がなくても、人は楽しく生きていける。
やる気を持てないから生きている価値がない。積極性がないから生きない。どちらも馬鹿げている。人は誰しもただ生きているにすぎないのだし、積極性があるから何かをしているわけでもない。ぼくは自分の生に価値があるなんてこれっぽっちも信じていないけれど、案外楽しく生きている。何をするにも積極性なんてないけれど、気が向いたことはとりあえずやってみるし、たとえ積極性があっても気が向かないことは極力やらない。やるかやらないかを決めるのは、少なくとも「積極性の有無」なんかではない。失敗して恥ずかしい思いはしても、それで傷付くような積極心もない。
繰り返す。積極性みたいな内面的なオプションをまるで「価値あるもの」のように喧伝することは、それを持ち得ない人間にさらなるダメージを与える可能性がある。大切なのは積極性のある人も積極性のない人も、変に委縮せず生きられる内面を育むことではないか。その意味で、「積極性教育」みたいな言葉が子供の目に触れること自体、害悪だとぼくは思う。生きたいという気持ちを育む要素として「積極性」は必須でも重要でもない。積極性を持って生きるのもいいけれど、ダメ元で生きるのもいいし、そもそも結果なんて考えずになんとなく生きるのでもいい。生きたいという気持ち自体必須じゃない。
まあ、こんなのは積極性を欠如したぼくの大いなる自己欺瞞かもしれないけれど。
前から彼らのダイアリーを読んでいて感じていたが、
二人とも低収入なのに人気があったり、
オフ会等で女子からちやほやされたりしていて非常に羨ましい。
服装に気を遣っている様子もある。
二人とも大学は出ているようだ。
ただ、両者とも年収100万円もないような
ワーキング・プアな生活を送っている。
しかし、普段書く文章に「みすぼらしさ」など微塵もなく、
それどころか余裕すらうかがえる気がしてくるから不思議なものだ。
よく分からない思想の話とかが出来て、hokusyuとかポマみたいな
頭の良さそうな人らとも仲が良さそうだ。
コトリコはビジネスジャンプに(原作者として)表彰されている。
両者とも、
普通の人が普通の生活をしていても一生書けそうにないレベルの文章を書いているんだ。
確かに、「はてなの中の蛙」と思う人もいるだろう。
「ネットの中の蛙」でもいい。
でも、自分にはそこにすら届くことがない。
おそらく、彼らは自分の中に確固たる哲学を築いてるんだと思う。
俺はそれが築けていない。
毎日が苦しい。
例外だって存在する。
二人を見ているとそう思う。
貧乏でも文章の力だけで人を魅了するし、
オフ会で女子と会ったり出来る。
代理店金取りすぎてのは事実だとして、適正な価格てじゃあ、どうやって決めるのかなあ。効果測定?でも、効果測定ってどういう方法で、どこにその基準を決めるのかで揉めると思う。それに、もっと根本的なことをいうと、広告とかCMとか単体の費用対効果なんか怖くて誰も測りたくないんじゃないかな。申し訳ないけど、あれってゴミみたいに大量に、色んなやり方で露出させるから成立する商売であって、単独の「広告」なんて成立しないように思う。
一定以上の閾値を越えてないものと越えているものでは、当然「効果」の基準も変わるだろうし、その場合、総体としての「適正な価格」とかどうやって客観性を持たせられるんだろうか。もちろん、既にあるものの中で役に立つとかより良いとかは語れるかもしれないけど、そもそも商品としての広告それ自体の価値なんて状況との相関関係の中でしか語れないし、そんなものどうやって測れってんだ。学者にしろ専門家にしろ、理屈はたくさん提出してくれるけど、あれって一般論でしかない上に、すでにそれが成立している状態からしか始められないから、そんなものを頼りに「効果」と「費用」の関係を問われても困る。
正直な感想を言えば、客観的な測定とか絶対無理。業界でもいいし、ビジネスモデルでもいいけど、確立された状態から逆算して一般論として述べることは出来ると思うけど、それを事実と一緒くたにするのはちょっと俺には出来ない。効果って言われてもな、というのが本音だ。企画書とかプレゼン資料の中でなら有効/無効は問えるだろうけど、ああいうのは最初から目的もターゲットも決まってるから意味があるんであって、相対的な客観性でさえも厳密に証明するのは困難だと思う。
個人的には、という言い訳をしたうえで言わせてもらえば、あらかじめ売るものとターゲットを決めないでビジネスの有効性とかなんて問えないし、いわゆる方法論的な理屈それだけで成立するほど単純なものじゃないから、何の前提もなく「効果」とか言われても正直そんなものは測れない。…て言えれば楽なんだけどなあ。
企画書でこうすればこうなるみたいな話をするのは、「ある企画を成立させるために有効な方法」ということであって、その場合ターゲットはクライアントでしかない。クライアントがそれに価値を見出すとしても、そうするための企画書やらプレゼン資料やらなんだから当たり前。それは世の中の話でもないし、ましてや「世界」とか「社会」の話じゃない。会議室の狭い空間の中で、相手と自分の曖昧な合意の下で始めて意味を持てるだけ。もちろん、クライアントだって馬鹿じゃないからちゃんと読む人は読むけど、それって単に「企画書の読み方」とかそういう話でしかない。
全てが嘘だとは言わないけど、広告の客観的な効果とか厳密に問いだすときりがない。大半の人間はそれが分かってるから、そんなものに手を出さない。でも、世間じゃ何故か広告論とかマーケとか人気。大学でコンテンツビジネス(そもそもこの言葉がすごく胡散臭い)とか学んでる連中にいたっては、本気で理屈を信じてたりしてもう…。個人的にああいうのを客観的事実みたいに語られだすと、正直、引く。客観的合理性があるのは、単に商売が成り立ってて、現にそれでやってられるから。別にそれが間違いだとか、ましてや道徳的にどうこう言いたいわけじゃないけど、価値とか有効性とかって表現を使わざるを得ないのはそもそもが物凄いたくさんの前提の上に成立するものでしかないし、逆にいえば極めて限定的なかたちでしかそんなもの成り立たない。と思う。いや、ほんとに。
理論家に期待してるのは商売に役立つことであって、客観的事実の証明じゃないからいいんだけど、そういうのって一人歩きしだすから怖いよ。そのうち、自分でも半分くらい信じ込みはじめるし。経験的な蓄積から帰納して理論をつくるのはいいけど、帰納していく過程が証明できんのか、俺には疑問。でも、きっと周りは素直に「市場」とか信じてるんだろうなあ。仕事だからやってられることをうっかり信じこみはじめると自分の首を絞めかねないから、早めに色んなことに見切りをつけておこうと思う。そうしないと、なんか手酷い失敗をしかねないし。
学生は話半分で講義を聴いてた方が身のためだよ。役に立つのもあれば、立たないのもあって、即座に学問上の理屈として間違いなわけじゃなくても、少しも事実でないことなんていくらだってあるんだから。ま、プレゼンで色つけるのには有効だけどさ。でもな、本当のことを話すとそれって対クライアントの関係で成立してるだけだから。向こうの立場が明らかに強くかったりすると、相手がちょっと勉強して強気に出たら、単なるレトリック程度じゃ一蹴されておしまい。((でも、それだって「説得力」て話でしかないから、事実とは関係あんのか不安に思う。その辺はディベートとかと同じ。あくまで、相手にあわせてどういうレトリックを使えばいいかでしかないし、逆にいえばそれを越えて悩むのは不毛。))
老婆心で言わせてもらえば、一生懸命なのは分かるけど、そういうときに仕事上の作法としてどういうレトリックを使えばいいかだけを身に付けて、自分の「信仰」を守ろうとするのはやめたほうがいいよ。あと、仕事で学習したことを私生活に持ち込むのは見てて辛いからやめて。個人個人の主観とか経験とかを超えて共有されているように見えても、それは単に業界的な約束事だったり、下手をするとその職場でしか通用しないものだから。そういうのを使って優越感に浸りだすと、個人的には「終わってんなあ」という感想しか抱けない。
全体的にそうでも個別のケースでは色々あるかならなあ
増田だけでなく世の中の人間にけっこうある認識の仕方だと思うんだけど、「全体的にそういう傾向がある」っていうのを「100%そうなる」に置き換えて理解してる人がけっこういるんだよなあ。
一方、逆になんだが、個別のケースによって違いがあるのをいいことに、「全体的な傾向」まで存在しないかのように言い張る人もいる。学歴のない奴でも成功した人はいる、だから学歴なんか大人になったら無関係とか。個別のケースとかお前の会社は知らんけど、学歴と生涯収入の相関関係について全体的な統計取りゃ結果は明らかだろうにっていうことなのにね。
まああれだ、極端な解釈しちゃいかんていうことだ。
「勉強が出来る = 頭がいい」への違和感は「能力を測る基準の一つ」と「能力」をイコールで結んでしまっている事が原因でしょう。
つまり「100メートル走が早い = 足が速い」「リズム感がある = 音楽センスがある」「デッサンが上手い = 絵が上手」と言っているようなものです。
世の中でそのことを否定する意見が多いのは負け犬の遠吠えというよりも、世の中で求められている「頭の良さ」と「学力」の乖離が大きいことが原因でしょう。
そのため企業は、より精度の高い判断基準を求めて「SPIテスト」を行ったり、世の中が「EQ」や「地頭力」などの新基準探しに夢中になっていたりするのです。
ちなみに、個人的な感想としては「学力」と「頭がいい」には弱い相関関係は有ると考えていますが個人対個人のレベルで使用するためには精度が低いと思っています。
助言感謝。
ただ、だとしても、三流私大クオリティというのは言い過ぎかという印象も。
三流私大教員(イメージとしては偏差値50以下のところ)のクオリティはあんなもんじゃないか、と。もっと、とんでもなくクオリティ低くてビツクリする連中がうろうろしてて、まじびびる世界だという印象。
池田さんが三流私大にいるのは、学者としての能力の問題以上に、人格的なところでトラブルを起こして、あんなところに流れ着いてしまった結果ではないか、と。能力としては三流よりも上のはず。
ちなみに大学のクオリティと学者のクオリティの相関は三流私大に関しては有意に低いけれども、二流??一流に関する教員のクオリティは、弱い相関関係ぐらいだという印象。東大でも、慶應でもハズレはそれなりにいる。
「割れ窓理論」に基づく政策なんでね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B2%E3%82%8C%E7%AA%93%E7%90%86%E8%AB%96
ちなみに、「割れ窓理論」自体はその妥当性について議論がある。元々データに基づいた理論ではないし、挙げられている事例も因果関係と相関関係を混同しているのではないかとの批判もある。
僕は今まで死んでいた。無益な事ばかりをしていた。非生産的で、怠慢で、無価値なその行動を「死んでいた」と形容する時点でまた、まだ死んでいると言える。
理由は分からない。何が間違っているとか、何が正しいとか、そういう事を考えられる頭ではなくなってしまったから、「なぜ死んでいたか」に対する因果関係はおろか何らかとの相関関係さえ見出せずにいる。
昔を思い出す。それはいつだって良い。物心がはじめてついた時でも、幼少の頃遊びに夢中になっていた頃でも、悲しみに嵌り対人関係を拒んでいた時でも。何か本質的な部分で自分が成長した点はあるだろうか?恐らくない。
だから「死んでいる」。零点にどんな係数を与えても不動な様に意味のない事ばかりをずっと掛けあわせていた。それがその場限りの対処法にはなっても遠続的な策にはならない。そしてその場限りの策を選んだ責任は僕が負い、ロングスパンから見た相対的なマイナスの利益も確実に自分のものになってしまう。誰も本当の意味を教えてくれない。いや、単に僕が何に対しても懐疑的なだけなのかもしれない。
近いものに信仰心に対する疑惑がある。それは往々にして非科学的であって僕としては考慮するまでもない事だけれど、やはり信じるものがないことによる心の隙間はどうやっても埋められない。
今が苦痛なく過ぎることを願い、明日も同じ様に変化のない日である事を望む。それが諸悪の根源だ。
そこで燃料切れで鬱になったり引きこもったりするやつはいっぱいいたさ。
勉強するのがいやになってやめちゃったやつだっているさ。
頭がいいかどうかにあんまり相関関係はなかった。
やめるほど度胸がないのは人を見下し続けたな。出身高校から果ては血液型までわざわざ引っ張り出して。
大学出てもそういう生活を続けて,なんとか綱渡りに生きてる奴もいるけど,鬱になって外に出られなくなったやつだっている。
小学校から走り続けてる人をみると心配になる。
遊びが必要なんだよ人間には。壊れた時,とまる余裕がなかったら修理もできずにばらばらになるしかない。止まっても休んでも余力があるならまた走りだせるし追い付ける。
そうでないなら,自分の身丈にあった世界にいることをお勧めする。
学歴なんてなめてるくらいでちょうどいいんだよ。社会に出たらそんなもんだ。金も権力も持ってたって別に楽しくはない。人に自分の価値を決めてもらい続ける人生なんてまっぴらだしな。それでも何も知らずに東大くらい簡単に行けるよとなめた口をきくくらいでちょうどいい。実際そのくらいのものだ。入ることに関しては。小学生,いいや幼稚園生のころから走り続けても高校の2年間程度受験に熱をあげてもやることやれば入れるんだから。それでダメだったらなめた口きいた自分を恥じればいいし18の時の失敗なんて長い人生から見れば微々たるものだ。長い人生から見れば大学卒業するまでの22年間だって微々たるものだ。
いいんだよ,人生なんていい加減で。