はてなキーワード: 相関関係とは
マジレスしておくが、いくら本当に通だったとしても周りの人がわからなかったら通ぶれないだろ。だから因果関係と相関関係という決まり文句を使い続けるべきと思うよ。
自分にとって不愉快な統計分析が出ると「相関関係であって因果関係ではない」というのは定番だ。逆に自分にとって好都合だとまったくそういわないのも定番中の定番だが。「相関関係であって因果関係ではない」というのはとてもわかりやすいし汎用的だ。しかしそれゆえみんな口々に言うようになってしまった。その結果「相関関係であって因果関係ではない」だけではもはや通ぶれず、自分に不都合な意見を批判しながら自己顕示欲を満たすことはできない。そこで「相関関係であって因果関係ではない」ほど汎用的ではないが、わかりやすいフレーズを発表してみよう。それは「勝手に自分で指標をつくるな」だ。題材は「組合と学力に関連性はあるか? 低学力地域は日教組票多く」。ポイントは「学力とはいったいなにか?」ということだ。記事によると「小中2学年の全教科の全教科の今春の平均正答率の合算」だ。どこが問題なのだろう、具体的に考えてみよう。正答率だと面倒くさいので平均得点とする。A, B, Cという3つの県があったとする。テストの対象は数学と国語としよう。テストの結果は次のようになった。
科目 | A | B | C |
数学 | 50 | 70 | 60 |
国語 | 60 | 30 | 10 |
合計 | 110 | 100 | 70 |
単純合計ではA県がトップだ。従って産経新聞の分析ではA県の生徒がトップということになる。しかしそれでいいのだろうか?よくないだろう。同じ70点でも平均50点のテストにおける70点と平均80点における70点は異なる。また同じ「平均点プラス10点」でも得点分布のばらつきによって異なる。こうしたことを考慮しなければならない。こうしたことを考慮すると例えば平均からの差を得点分布のばらつきである標準偏差で割った数値の合計で比較する方法が考えられる。これは次のようになる((慣れないopenofficeでやったのでミスがあるかもしれない))。
科目 | A | B | C |
数学 | -1 | 1 | 0 |
国語 | 1.0 | -0.13 | -0.93 |
合計 | 0.06 | 0.87 | -0.93 |
平均との差を標準偏差で割ったものだとB県が一番ということになる。単純合計よりましだが、この指標にだって問題がないわけではなく完璧ではない。それについては置いておくとして、要はいくつかの指標から比較可能な((正確には比較に意味がある))指標を作り出すのは難しいのだ。逆に言えば分析者の作った指標についてはつっこみが入れやすい。公正な指標を作り出すのはほとんど不可能なので、ほとんどの場合「その指標は恣意的だ」という指摘が成り立つ。つまり自分に気にくわない統計的分析があり、それが自分で指標を作っていれば「その指標は恣意的だ。勝手に自分で指標をつくるな」といえばいいのだ。これからは「相関関係であって因果関係ではない」という馬鹿の一つ覚えを止めて、これを使って「俺は他の奴とは違うんだぜ」と自己満足に浸ってほしい。
それにしても「相関関係であって因果関係ではない」というのはよくいわれるのに、同じくらいわかりやすい指標の危うさについてはまったくいわれないなんて、日々自分に不愉快な分析に対して「相関関係であって因果関係ではない」といってる人の素性がよくわかる。
http://sankei.jp.msn.com/life/education/081008/edc0810080731000-n1.htm
個人的に、日教組の組織率や、数字に表れない影響力と学力に直接の相関関係はあまりないんじゃないかと思ってる。リンク先では「関係があるっぽい」という論調だけど。
問題なのは、組織としての日教組がどのような思想を肯定もしくは否定しているのかという点と、政治的に中立であるべき公教育に携わる立場との整合性だろう。日教組が思想的にかなり偏った組織である事を示すものは枚挙に暇がないわけで、それらの是非を世論に問い、当事者達を日の当たる場所に引っ張り出して大勢の目の前で弁明させるのが、この問題の解決の近道なんじゃないかと思う。
その通りだが、そこで言われる「政治」にはちゃんとした手続きが存在する。それを通さずに好き勝手やろうとしているのが教職員組合。
2008年10月19日 furukatsu furukatsu 増田, 政治, これはひどい 公教育に関わる人間は特定の政治思想を持ってはいけないのか? 自分の正義に基づいて運動をすることは誰にも咎められないだろう。
政治思想を「持つ事」と「運動する事」の区別くらい付けろよガキの屁理屈じゃあるまいし…。「自分の正義」とやらに基づいて自衛官の子息を「人殺しの子」と罵倒してた教師とかどうするんだ?
2008年10月18日 blackdragon blackdragon 増田 公務員が憲法を守りましょうって方に偏っているのはむしろ正常。日教組の偏り云々する人が自民党や教育委員会の偏りには無批判なのが不思議。
日教組と政党を同等に扱ってるのがそもそもの間違い。前者は特定の思想に染まった人間が勝手に寄り集まってる集団で、後者は選挙で有権者から相応の支持を得ないとなれない。
「TV、ゲーム時間短い児童生徒 テスト正答率が高い傾向(東京エスノ)」
ゲームをやる時間が短い生徒ほど正答率が高いという相関関係があるという記事なのに、それすら理解できないバカどもが馬鹿の一つ覚えで「相関関係で因果関係ではない。記事を書いた奴は馬鹿だ。」といっている。馬鹿はお前だといいたい。
一方、テレビやビデオ・DVDを3時間以上見たり、聞いたりする児童生徒の割合は、小学校45.8%(34%)、中学校38.8%(32.4%)となり、前年度と比べ大幅に増加している。正答率で見ると、小学校の国語A(主として「知識」に関する問題)で「全く見ない」は64.7%となり、「4時間以上」の61.4%を上回った。テレビゲームに関しても同様に、「全く見ない」69.5%、「4時間以上」52.6%となるなど、相関関係が見てとれた。
統計で「相関関係で因果関係ではない」という奴はバカであるという好例だな。こういう奴等は統計の利用法をまったく思いつけない。「相関関係で因果関係ではない」という制約のもとどう考えていくのかという発想ができない。そのため自分の思い込みでバカなことを考える。これがいい例。「統計の結果を使った記事 = 相関関係と因果関係をごっちゃにしている記事だ」という思い込みのもと的外れな批判をしている。まったく現実を見れてない。「相関関係で因果関係ではない」という奴は思い込みの激しいバカであるといういい例だ。
「TV、ゲーム時間短い児童生徒 テスト正答率が高い傾向(東京エスノ)」
ゲームをやる時間が短い生徒ほど正答率が高いという相関関係があるという記事なのに、それすら理解できないバカどもが馬鹿の一つ覚えで「相関関係で因果関係ではない。記事を書いた奴は馬鹿だ。」といっている。馬鹿はお前だといいたい。
一方、テレビやビデオ・DVDを3時間以上見たり、聞いたりする児童生徒の割合は、小学校45.8%(34%)、中学校38.8%(32.4%)となり、前年度と比べ大幅に増加している。正答率で見ると、小学校の国語A(主として「知識」に関する問題)で「全く見ない」は64.7%となり、「4時間以上」の61.4%を上回った。テレビゲームに関しても同様に、「全く見ない」69.5%、「4時間以上」52.6%となるなど、相関関係が見てとれた。
統計で「相関関係で因果関係ではない」という奴はバカであるという好例だな。こういう奴等は統計の利用法をまったく思いつけない。「相関関係で因果関係ではない」という制約のもとどう考えていくのかという発想ができない。そのため自分の思い込みでバカなことを考える。これがいい例。「統計の結果を使った記事 = 相関関係と因果関係をごっちゃにしている記事だ」という思い込みのもと的外れな批判をしている。まったく現実を見れてない。「相関関係で因果関係ではない」という奴は思い込みの激しいバカであるいい例だ。
ここらへんや、はてブ等々を見ていると、そんなんだから遅漏になるとか、早漏で候とか
しかし、そもそもそのような議論に興味は無い、
ポリネシアンセックスとは?ムードがとっても大切![LCのちょっとHなラブ・コラム]
ポリネシアンセックス派にとっては、早漏だろうが遅漏だろうが関係ない。
そもそも、そのような議論とは時間の流れが違う。
早漏??遅漏??
否。
ちなみに、俺は、朝から晩飯前まで3回セックスした後で、寝る前に律儀にオナニーをして
しかし、遅漏になることなどないし、オナニーのし過ぎと遅漏との間に相関関係など、
少なくとも、俺に限っては無い。
あるとすれば、それは、そいつのオナニーが変態的すぎるからだろう。
経済的な合理化が叫ばれるこの現代において、スローライフの最後の聖域が、
セックスまで、合理化を求めてどうする??射精のスピードなど、どうでもよいでは
ないか。個人差などどうでもよいではないか。
懸命なる諸兄においては、セックスの目的を見誤ることなく、射精道を追及して
頂きたいと願ってやまない。
IQは双子の研究から遺伝子と相関関係があることが知られています。然しながら頭の良さを遺伝だ、などと言うのは暴論です。
Geneは私たちのフレームワークを形作ります。Geneによって私たちの感情などのフレームワークさえ形作られてしまいます。
しかしながら、Geneがすべてを形作るわけではありません。
Geneによって作られたフレームワークに私たちは環境を通して経験という粘土を貼り付けていきます。
経験という粘土はときに初めに作られたフレームワークを超える形を作ることさえできます。
しかしながらGeneによって決定されているフレームワークを私たちは無視することはほとんどの場合においてできません。
感情の傾向や知性などは遺伝します。しかしながらそれは環境で変えることもできます。
遺伝子は立体的な土台であり、経験はその土台を肉付けする粘土の役割をします。
経験という粘土が増せばますほど私たちは遺伝子という土台を認識することが難しくなります。
しかしながら粘土で形作られたその形は土台の形に依存するかもしれません。
どの様な人形を作るかはあなたの力次第です。
もしあなたの人形がいびつな形をしていてもそれは遺伝子の所為ではありません(奇形などの顕著な例は除きますが)
それはあなたがあなたの人形に足していった粘土の所為なのではないのでしょうか?
女の美貌にはそれだけ価値があるってことですよ。
フェミの人はどうもその辺無視しがちな気がするけど、
それはやっぱり美人はフェミになりにくいっていう
相関関係があるのかなーと推測したりする。
本気で言ってる人とネタで言ってる人の区別が難しいよね。
俺も身近にAB型の変人がいたら、「これだからAB型は」ってネタにすると思う。
ただ、本気で信じてる人はちょっと困ったちゃん。
2,3年前に帰省した時、母親がホリエモンの血液型を調べてくれと言ってきた。
あの性格なら絶対B型だと言ってはばからない母に対して、血液型診断なんてのは科学的根拠がないと主張しても、
「いや、B型は絶対変人なの。だって私の職場のB型はみんな変人だもん。」
と主張してくる。
いやあ、それはあなたの身近な変人がたまたまB型だっただけで、変人ならB型だって証明にゃならないよ……
とまぁ、反論するのもしち面倒くさいので、検索をかけてとっとと切り上げようとした。
だけどもホリエモンの血液型は見つからず、結局わからんかったと報告したら、
「なんで無いの?どうして?」
と異様な執着を見せてきた。
俺から見れば血液型なんてどうでもいいデータはわざわざ公表するまでも無いことだと思っていたが、
かく言う俺もテレビばっか見てた時代はある程度相関関係があると信じていたから、
あんまり他人のことバカにはできないんだけどね。
血液型と性格に相関関係がない以上、AB型(二重人格)とかB型(自己中)という風に血液型で、そういう風に思われたら、根拠のないことで、ネガティブなレッテルを貼られることになり、非常に悲しい差別だと思います。
私の知り合いで、B型で、「血液型の話になると憂鬱」という人がいます。もうAB型なのにA型と言い切ってごまかしている人もいます。
けっこう信じてる人いますよ。
人文・社会科学系の学会の懇親会なんかでも話題になったりしますし。
という三段論法らしいです。
あと、細木和子の本も人気あったりします。
人類学者で「○○地域における呪術信仰について」みたいな論文書いて、他民族の迷信については科学的に分析する人が、日本の雑誌に載ってる占いに一喜一憂してたりして、興味深い現象だと思います。
統計を使って、社会現象や、人間の性質について、データを集めて分析していると、血液型と性格のあいだに相関関係はないことは、明白。
心理学で調査をする時に、性別や、年齢をデータとして取ることはあるが、血液型や皮膚の色を取るようなことはない。前提にすらあがってこない。論文を調べたら、心理学的には、血液型と性格には相関がないことは、レポートされている。
例えば、企業で、採用や人事で血液型を参考にしたりしてるの(個人的にはしていたら大問題だと思います)?
ただし、血液型が普及しすぎて、血液型のせいではなく、知識の影響でA型がよりA型っぽい性格になるというレポートはある。
まあ、ちょっと真面目に考えれば、家庭環境や、親の性格、経験を差し置いて血液型がその人の性格を決定ずけるなんて、ありえないことは、わかりそうなものだが、それは、私がたまたま心理学を勉強しているから?
この話を真剣にすると、別に本当かどうかはさておき、話題作りとか、場を盛り上げるのにいいんじゃない?といった意見が出ることがあるが、血液型と性格に相関はないのに、取りざたするのは、肌の色と知能に相関がないのに、盛り上がるからいいじゃん、というのと同じぐらい危険な差別思想だと思う。理不尽な区別は差別。
さすがに、大学で、社会科学系の勉強をしている人は、仮説を構成する概念を検証するトレーニングを積むだろうから、大丈夫だと思うが、ちゃんと学問をしなかった人は、素通りで、定説として信じてしまってるのだろうか?
小学校の教科書ぐらいに、ちゃんと「血液型と性格に関係はない」と社会か理科で教えてほしい。
日本人のどれぐらいが血液型と性格の相関を信じているのだろうか?
今回のヤマダ電機の場合、メーカーの人がメーカーの給料でヤマダで働いてた(働かされてた)わけだ。メーカーは人手を取られ涙目、ヤマダ電機ウマー、消費者は安く買えるんだからいいじゃん、で終わりそうだが。
メーカーやヤマダのトータルの作業量自体は変わってないわけで。
メーカー社員の立場としては(自覚や意思と関係なく)労働力の不当廉売をしてることになる。
ヤマダ電機も、あるいはトヨタやキヤノンも、そういう労働力の不当廉売が行われている、そうせざるをえない環境が現状。
間接的に「お前らがそうやって低賃金で働くからこっちの給料相場も下がるんだよ!」と言う解釈もできる。というか労働市場的にはそう。
だから、
とは言い切れないんじゃないかなあ。
モノの値段は需給バランスで決まる。
ヤマダが労働力を搾取してたこととヤマダの店頭小売価格が安い事に、相関関係はないと言ってもいい。
「俺が安く買えればそれでいい」は正直かつ多数意見だろうが
これらは二者択一ではない。そう思い込まされているだけである。
確かに親に勉強しろと言われて勉強した俺はおぼっちゃまかもな。
他にいい方法がないからだろう。
同時に「機会」を提供することは難しいので、時間差で拾っていくことが「挽回」という方法なのだろう。
大学で失敗しても、大学院で挑戦可能にしてあることも、そのように理解できるし、
「政治」の側から見て、どちらが一定の金でどれだけ改善可能か見極めた結果であるのかもしれない。
ところで機会を平等といっても、どこまで平等に与えればいいのだろう。
ホームレスにも平等に資本を投下して、大学生にするべきなのだろうか。
確かに機会は平等であるべきだからなあ。ただその原資は税金だろう?
未成年者に間違った情報を意図的に与え続ければこれは虐待だぞ。意図的でなかったとしても、結果が悲劇的であることには変わりがない。
経験則と言うのは、間違っていることもあるんだよ。間違いだと思って、人の意見を聞かないと意味がない。特に偏狭な教師なんてやつの言うことは。
ただ昔よりは、ネットと言う手段により、情報の偏在については改善されているとは思う。
「万人に平等に機会が与えられていない現状には問題がある」と言っているだけだ。その問題の解決にをどの程度取り組むかは政治判断になるが、ここではそこまで論じる気はない。
問題がないと言っていないので、君が地道な運動をすればいいのだな。
情報の偏在を減らす努力は、別に政治に頼らなくても出来ること。
増田に書き込むことも一つ。
だけど金は有限だし、税金なんだなあ。昔日本でもあったように、私財による改善はあってもいいと思う。
要因として考え得る可能性が一種類しかなければそれを要因と考えるのが合理的に決まっていよう。
1種類だとどうして決まるのかわからないが、それはどのように示されているのだろう?
相関関係と因果関係の違いはしっているはずなのに、どうして「要因」という因果関係を
示す言葉が出てきたかわからない。君が言っていたのは、相関関係のことだろう?
機会が十分に与えられる人間が多ければ、その機会を利用して成功する人間が全体として増えるのは自明なことだ。別にその機会に乗らなくてもよい。問題は、機会がないということはその選択の余地すらない(あるいは理不尽に狭められている)ということだ。そして選択の余地がなければ責任の取りようがないことは定義上自明なことだ。
機会という言葉をもう少し正確に使ったほうがいいだろう。
機会の存在が限定的にしかしられていないことと、投資効率を考えて機会が限定されていることとは別の問題ではある。
金の問題は確かに難しいが、どうやって効率的に投資するかを考えると、どうしても行き渡らないところがでてきてしまう。
それに対して、知る機会を増やすことに関しては、もう少しローコストに改善可能だろう。
君はそこに尽力してみたはどうだろうか。アカギクン。
機会格差というものはそういうことか?そもそも機会自体にへのアクセスに格差である、
ということならわかるのだが、こと入試に関しては機会自体を得る手段は十分あるのだから、
それは自分の意志だろう。
後の祭りと言う言葉自体はあるだろうし、誰しもこの時点でこういう知識をしっておけば、
ということぐらいはあるだろう。
例えば、誰しも社会に出ると、学生時代にもっと勉強しておけばよかった、と後悔することが多いが、
勉強する機会自体は十分与えられている。
しかしそれを実行する意思が、大学生時代は非常に減退していることが多く、他に投資することが多い、
ということであって、それを「機会格差」などという言葉で煽り立てるものではない。
そもそも「機会格差」に合理性がある場合は、それを受け入れるしかない場合もあるはず。
それだけでは因果関係までは説明できないことは言うまでもないし、機会格差が主たる原因であるかは、
わからないではないか。
ちなみに、機会は平等だとは言ったが、「どこまで戻れば平等なのか」ということは
非常に難しい話であって、そう簡単にけりがつく話ではない。飯田氏がWiredに書いていたとは思う。
あっと、別の増田ね。