2009-03-13

子供には自尊心も自信も積極性も要らないことを思い知らせるべき

元ネタhttp://diary.lylyco.com/2009/03/post_276.html


あってもいいけれど、なくたって全然構わない。そういうものは多い。

積極性というのも、そうしたもののひとつだと思う。もちろん、子供に積極性を持たせることができればいいこともあるかもしれない。けれども、せいぜいが「かもしれない」程度のものである。むしろ、役に立つのは積極性なんかよりも「生きたいという気持ち」ではないかと、個人的には思う。そして、「生きたいという気持ち」と「積極性」は必ずしも相関関係にあるわけではない。積極性なんかなくても「生きてみよう」と思うことはできる。にもかかわらず、いたずらに「積極性を持つことは大切だ」などとやるから「積極性がないから死にたい」だとか、おかしなことになる。むしろ逆効果ではないか。

教育で「積極性」を植え付けようとすることは、それらを「持つべきもの」と規定することになる。つまり、「それでも積極性を持てなかった人」は、ますます委縮することになるだろう。教育が100%うまくいった例は、たぶん、ない。つまり、必ず落ちこぼれ子供は出る。必ず、だ。ぼくはそれを恐れる。やる気があったり、積極性があったり、自分には生きる価値があると思い込んだりできる人は、確かに幸福かもしれない。けれども、そんなものは心のオプションにすぎない。やる気がなくても、積極性がなくても、人は楽しく生きていける。

やる気を持てないから生きている価値がない。積極性がないから生きない。どちらも馬鹿げている。人は誰しもただ生きているにすぎないのだし、積極性があるから何かをしているわけでもない。ぼくは自分の生に価値があるなんてこれっぽっちも信じていないけれど、案外楽しく生きている。何をするにも積極性なんてないけれど、気が向いたことはとりあえずやってみるし、たとえ積極性があっても気が向かないことは極力やらない。やるかやらないかを決めるのは、少なくとも「積極性の有無」なんかではない。失敗して恥ずかしい思いはしても、それで傷付くような積極心もない。

繰り返す。積極性みたいな内面的なオプションをまるで「価値あるもの」のように喧伝することは、それを持ち得ない人間にさらなるダメージを与える可能性がある。大切なのは積極性のある人も積極性のない人も、変に委縮せず生きられる内面を育むことではないか。その意味で、「積極性教育」みたいな言葉子供の目に触れること自体、害悪だとぼくは思う。生きたいという気持ちを育む要素として「積極性」は必須でも重要でもない。積極性を持って生きるのもいいけれど、ダメ元で生きるのもいいし、そもそも結果なんて考えずになんとなく生きるのでもいい。生きたいという気持ち自体必須じゃない。

まあ、こんなのは積極性を欠如したぼくの大いなる自己欺瞞かもしれないけれど。

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