はてなキーワード: 一喜一憂とは
いやほおおおおおおお!!!
Cですよ、C! 巨乳、いわゆるデカ乳とは行かないまでも貧乳でもない、そこそこの大きさ!
いやね、さすがにね、こんな公共の場で胸の事書くなんて羞恥のかけらも無い女とか思われても仕方がないかと思いますが
でもね、CなんですよC!自分的理想のおっぱいです!!20代にしてついにここまで成長しました!
CどころかD・E・Fと成長していく妹を尻目に、ずっと小ぶりだったマイバスト!
とか言われて希望を胸にしまってきたけど、それはあまりにも遠すぎる未来ッ!
黒髪処女のBカップなんてギャルゲ設定の自分がそもそも結婚できるはずねーよ
それこそ二次元に移り住むしかない。
とか思ってた私がついにCカップ!
嬉しすぎてさけばずにはいられないっての!!
でもなんか知り合いに叫ぶのは恥ずかしい
「え?増田ちゃんそんなこと気にしてたの?細いんだから気にすること無いのにーブハッ!」
みたいな反応が目に浮かぶ!
そうだ、匿名で叫ぼう!
で、今に到るわけですイヤッホォォォォオオォオウ!!!
勢いに乗って下着総入れ替えしちゃった!
未だにゴテゴテレースとか黒とかキツめの色は抵抗があって買えず
白中心に十代の娘が好きそうなデザイン選んでる自分お子ちゃますぎる
でもいいもんね!だって胸はCカップで大人サイズだもんね!
胸のサイズで一喜一憂してる幼稚な私の中身だって、そのうち成長するもんね!
私の身近にいる甘えたメンヘラの特徴です
(でも実際に傷を見ると引っかき傷程度。自分でぐるぐるに包帯を巻いたりする)
(そして周りを気にせずに負のオーラを発します)
これは私の姉です。
もともと甘えた部分のある人だと、メンヘラ化した時にさらにそれが顕著になるようです。
どうか振り回されないよう、皆さまお気を付けください。
応援されたら嬉しいし、
なんとなく誰かを応援して一体感を得るのも楽しいじゃないっすか。
基本、誰かに思い入れを付与してその勝ち負けに一喜一憂するのって
結構いい娯楽だと思うんだけどなー。
そんで、応援する対象はやっぱ自分の共同体の一員の方が思いいれやすい。
それだけなんでないか。メディアによる共感のゴリ押しには俺も「ウゼエ」と思うけども。
でも、自国の人間をなんとなく応援して、なんとなく思い入れを持ってしまうのって
とても普通なことなんじゃないかと思うけど。
「好き」ってなんだかよくわかりません。
食べ物と人とじゃ「好き」の意味は違うみたいです(当たり前か)。
大切にしたい友人はいるけれど、その「好き」とも違うらしいです。
わたしはハニワが好きです。写真を集めてノートに貼ったり、絵に描いてみたりしています。
粘土でハニワっぽいものを作ってみたこともあります。大好きだよ、ハニワ……。
でも、その「好き」ともやっぱり違うんでしょうね。
なんでこんなことを考えてるかというと、
わたしのわからない「好き」を毎日浴びせかけてくる変なヤツがいるからです。
中高生の時、わたしは「男」と「女」は完全に別の王国の人間なんだと思い、
高い城壁を作って交流しないようにしていました。
だれかとだれかが戦ってどっちが勝ったとかいう話に一喜一憂しているよくわかんないヤツら。
向こうもわたしのことは「わけわかんない」らしくって避けられてました。
その壁が最近、「あいつ」の侵攻で壊され始めています。
最初から攻撃的でした。わたしのハニワノートをひったくって「これいいね」とつきまとい始めました。
質問攻め、遊びに誘い攻め、サークルの部室で待ち伏せ攻め、いろんなウザいことをしてきました。
そして、そのうちわたしをいま一番悩ませている「好き好き」攻めを始めました。
「オレ、増田さんのこと好きだから」「好きだから、会いたい」「もっと仲良くなりたい」
周りに吹聴し始め、わたしを困らせました。どう反撃すればいいのかも思い浮かばず……。
「やらしいことがしたいなら、もっとおっぱいが大きくてすぐ服を脱ぐヤツとすればいいのに」
そう思ってみましたが、どうにも有効な戦術ではなかったようです。
いつしか「あいつ」はわたしの妄想の世界の中へまで、侵略してきました。
妄想のなかの「あいつ」はわたしの頭を撫で撫でし、「増田はほんと、カワイイね」と言います。
「カワイイ」なんてちいさい頃親から言われて以来なので、変な気持ちになります。
そんでわたしを包み込むようにぎゅううと抱きしめてきます。
するとわたしの身体は痙攣したかのような、びりびりとした電気みたいなものが走り、
玩具を買ってもらえなくて駄々をこねてる幼児のように、居ても立ってもいられない気分になります。
さらにさらに、「あいつ」はちゅううとわたしの唇を奪い、
「ほんと、大好き」「超カワイイよ、増田」と呟きながら、何度も何度もキスしてくるのです。
そうなるともう、わたしの頭は熱病に侵されたかのように熱くなり、妄想は事切れるのです……。
「好き」ってなんだかよくわかりません。
もうすぐ何百万人ものカップルがいちゃいちゃすると聞いている「クリスマス」の日がやってきます。
「あいつ」とはその日にも会うので、また好き好き攻撃をされてしまうかもしれません。
その瞬間が訪れたとき、わたしはいったいどんな顔をすればいいんだろうか。
私は多分鏡のような人間なのだと思います。
役割は人を写しその真似をし相手を一喜一憂させると言うことだけです。
時には相手を喜ばせ、時には叱咤激励し、時には気付かずそっとそこに立つ。
ただそれだけ。それ以上でもそれ以下でも無く与えられたその仕事を休まず続ける。
そんな生活が物心付いた時分から始まっていて、成長期、反抗期、思春期、いろいろ少しずつ拒絶をしてはみたけれどやっぱりその枠からは飛び出せないまま今日まで来ました。
相手が送った目線の先に私も視線を送ります。
相手が挙げたその腕を逃がさないよう私も腕を掲げます。
私はその人を多分完全にコピーできてしまう。口ぶりも癖も歩く速さも食べ方も泣き方もなんでもかんでもコピーしてしまう。
それは決してそうしようとしているわけではなく、ただ宿命のように私の体は吸収し抗うこと無く他者になるのです。
君といると気を使わなくて済むと度々言われる事があります。
それを聞き、私は目の前にいるその人物にとても良く似た笑みを湛えるのです。
なんかもう、ワケ分からん。まず、スポーツ好きな人が分からん。
野球好きのおっさんは自分がひいきする球団の試合見て一喜一憂するし、キッズどもは、通過儀礼のように野球チーム入って、坊主にして、練習に励んじゃう。
そんで、文集に○○選手のようなプロになってお母さんにラクさせたいとか言う。
それ、100%言わされてるやん。サッカーにしろ、他の陸上にしろ水上にしろ、何であんなにファンは熱くなれるのかわからない。
カッコイイと思うのはイメージの刷り込みでしょ。
へえへえ、私は競争本能が薄れた弱者ですね。君たちは思うさま、私を睨みつけ、嘲笑し、勝ち誇り、情けをかけなさい。とにかく、なぜそんな全世界中がスポーツに熱くなれちゃうのか。
スポーツは戦争の代わりだ。全然健全じゃないのに、なぜ「僕たちスポーツ観戦をたしなむ善良な市民です」みたいな顔するのか。
なぜそんな、競争させて優劣付けたがるのか。
確かに、一番熱くなれるエンターテイメントなのかもしれない。
確かに競争がないとシラける。みんなでお手手つないでゴールするリレーでは、本当の平和を体現できているとは言い難い。
その子ども達は次の日からテストで優劣を決められ、偏差値で人間性を決めつけられる。そうなのだ。確かに社会に生きる上で競争は必然だ。
え?本当に?ほんとに生きることって競争なの?競争しない社会は不可能なの?競争が必要な社会を作ってるから、オリンピックみたいなのに熱くなれちゃう人も出てくるんじゃないの?
競争させて得するのは誰?感動を共有できた気になってる観衆?いや違う。得するのはカネを得る人間、主催者側だ。
平和とかきれいごとぬかしてんのも主催者。(「平和」なんて、選手が戦ってる最中に考えてるワケがない。全てエライさん同士のご都合。)
当然、私と同じ、スポーツなんぞどうでもいい派の石原都知事はどうでもいいスポーツ予算を削り上げる。「どおでもええんじゃ、スポーツなんぞとっとと廃れろ!」
と言ったかどうかは知らんが、
石原都知事個人にとってスポーツはどうでも良かった。しかし「東京都」という視点に立ってみれば、オリンピックほどおいしい話はない。
もし東京がオリンピック開催地になれば、苦しい借金を一括返済、それどころかあまった利益で毎日遊んで暮らせる!
このオイシさに気づくや否や、早速、石原都知事は地域活性化計画をでっち上げ、オリンピック招致を開始。
ところがこれに民衆は怒る。「なんだい、さんざんスポーツ予算削ってたくせに!あいつ絶対私腹を肥やそうとしてるだけだろ!都市開発なんて、一体どこの東京都民が望んだんだ!」
で、結局土地も向いてない、という直訴が通じたのか、招致は失敗に終わった。
自分のことがわからない。
まず、容姿。
自分では容姿偏差値60くらいだと思ってるんだけど(人からかっこいいねと言われることもある)、時々50とかに見えて気が狂いそうになる。ちょっとした前髪の動きとかだけで。
気になって気になって鏡やガラスの写り込みばかり見てる。それでも不安は解消されない。これをやめよう。
WEBカメラを買ってPCにつけて、鏡よりも本当に近い(それは偏差値50やそれ以下が真の自分であるという事実)自分を直視しよう。
そしてそのワクの中でそれなりに努力して(WEBカメラでよく見えるようにする)、それが終わったら、外では鏡の類いは一切見ないことにしよう。
「鏡を見る」ということは、本当の自分に近づいているようで、本当はその周囲をぐるぐる回っているだけで自分にたどり着いていないんじゃないかと思う。
鏡を見るということは「あ、ガスの元栓締めたかな?」と出先で思い出すようなもので、けっきょく家に帰って確かめる以外でその不安をぬぐい去る方法はない。
家に帰って確かめる方法こそがWEBカメラだ。と考えた。そして外では、どうあがいても自分のことがわからないのだから、あきらめる。しかし完全にあきらめるのも恐いから、家出はWEBカメラで確認する。
こうやって自分というものと適度に距離を取る(努力する/あきらめるのバランス)トレーニングをしよう。そうじゃないと自分にこだわりすぎて自意識に押し潰されてる俺がいる。
次に声、話し方。
ICレコーダーを買って、一日の自分の話し方をチェックしよう。そして修正しよう。
本当の声じゃないはずなのに、「あ、今のしゃべり方はなんか変だった!」と1人で気が狂いそうに落ち込むことがしょっちゅうある。
しかしよく考えても見ろ俺。それは本当の声ではないのだ。本当ではないものに一喜一憂しても無意味だ。
だったら本当のものに一喜一憂しよう。そこでICレコーダーだ。
そして、ICレコーダーで一喜一憂したら、それ以外ではもう気にしない。だって気にしたってポイントずれてるに決まってるんだから無意味だもん。
そうやって気にする/気にしないのバランスを取ろう。
さすがに全く気にしないというのは恐いからね。
「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」じゃないんだけど、俺が気になるのは「格付け会社はなぜ潰れないのか」だ
そもそも需要あるの?誰が必要としているの?お金は誰が出してるの?なんの目的で?
なぜ調査結果が当然の信頼があるように思われてるの?
リーマンショックであんなことになったのに、だれも調査会社に対して言わないの?
考えれば考えるほど不思議だよ。
日本やドイツ、フランスの大学は10位に入っていなくて笑ったよ。
東京大学が15位くらいに入ってたかな。
百歩譲ってアメリカイギリスは良いとしても他のアングロ国はないだろwってかんじに思ったのよ。
こんな洗脳記事が日常の記事に紛れ、シャワーのように浴びている事に恐怖を感じたわけ。
しかもググってびっくりするのは、ランキングに日本の大学が入ってる事に一喜一憂して
「アメリカの大学はすごい><;」なんて書き込みしてるブログが大量にヒットするのよ。
誰も疑わないその光景に恐怖を感じるよ
格付け会社の評価を、会社ページのTOPに掲げてる間抜けな会社をたまに見るし
アメリカ企業は一流で先進的というイメージや、MBA取得ブームはなんなんだと
なんというか、アングロサクソンの世界戦略でもやってるんじゃないかと
陰謀論めいたことをたまに思うよ。
話が変わるんだけど、和田アキ子っているじゃない。芸能界のご意見番とか言われてるんだけど
和田アキ子が話題の芸能人に苦言を呈すニュースが流れて、普通の人は、和田アキ子偉そうだなと思うだろう。
でもニュースになるということは、誰かの流そうという意志がそこに存在するということだよね。
つまり、問題は和田アキ子にある訳ではないわけで。
その周りにいる誰か、または業界といわれる物で、問題の多くは問題そのものではなく外側にあると思うんだ。
だから、格付けだの、大学ランキングだのもそうだし、芸能から政治、国際問題まで言えるんじゃないかと。
なにかが起こったときに、誰かの発言ばかり取りあげられて
称賛や批判、どちらにしろ一方的に報道されたとき、そこに誰かの意志が存在する
番付がなされたときも、もっともな理由をくっつけて語られるが、本当に妥当なのかだれも分からない。
ただそれを消費して、いつのまにか当然のようにみんなで情報を共有する現状にすごく恐怖を覚えるよ。
あぁ、雨の日はくるものがある、精神的に。
装身具
身を守るための目的で所持しているもの
今はすっかり錆びついて、逆に邪魔な位だ
でもこの不自由な武器は捨てられない
この武器の使い道はきっとまだあるんだ、と自分を納得させている。
結果は失敗
この錬金術には等価交換として、若さと新卒という素材を投資したが
失ってしまった。
残ったのはちっぽけな錆ついた剣のみ。
周りでは錬金に成功したもの
年をとったら技を覚える訳ではない
HPは年々おちる、ただ精神力・忍耐力というMPの限界値が上昇するだけ
魔法は使えないのにね
まだ若い
話は弾む、自分のやりたい方面の話だからだ。
ただ一点
同じ内容なのに、重みが全然ちがう
絶望的なまでの開きに日本人特有のうすら笑いしか途中から出来なくなった
それは無いだろう、と必死で剣を手に入れたのに
今あるのは、錆びついた剣
この剣があれば、一端のモンスターと戦えるよ、とガイドに言われていた
実際、よく切れる剣と愛用している冒険者は数知れず
冒険はまだ始まったばかり
先駆者はみなそう言う
あきらめたらそこで試合終了だよと
指導者はそう言う
だけどなあ
復活の呪文はねえんだよ
HPは回復しても
経験値は0のまま
もう6年戦っても経験値1すら手に入らないんだよ
なら、俺はMAXがもう最低ラインなんだよ
回復しねんだよ、これ
先人はこう言う
自分は自分、手持ちの武器でやるしか無い。なぜなら、それこそが自分だからだ。
色々な武器を持たずにモンスターに挑もうとしていた自分が馬鹿だったんだ
慌てて錬金始めてもそりゃ失敗するわな
宝くじに一喜一憂する庶民をせせら笑う癖に、やっている事はそれ以下
とんだ道化師
笑われる位なら笑わせていると思い込んで生きてきたけど
お前の人生、笑い草だな
おい、笑われてるぜ、笑わしてみろよ
ああ、陳腐な上によく聞くセリフだ、実際そうだとも思う。
して、恋愛なんてスタートして、そうやって続いて行くんだろう。
そう求められて、そうあると恋愛事は上手くいくらしい。
でもこれは「相手に向けての事のみ」っていう前提が付くと思う。
良くて、それ以外は勘違いしたまんまでバカである方がいい。
しかし気がつかなくていい、気がつかない方がいい事は沢山ある
そういう所は、勘違いしたままで流せればいいのだろう。
しかしここが、「なまじ」マメで気が効いて察しがいいと、なかなか
流せない事が多い。
きっと天才超人的にマメで気が利くレベルの人は、そこは逆に「効かさ
なくて良いところ。」と無意識に察して、流すんだと思う。
中途半端にマメで気が利いてしまったが故に、気がついてしまった
事が、やっぱりしんどい。
だからと言って「じゃあ、いいや。」と諦めたりできるほど物分かり
が良いかっていうと、全然そうじゃない。
本当、気が効いて、勘違いしてバカになる方法ないものか。
この辺て逆にある種の摂食障害とも似てるよな。やせてもやせてもまだ太っているような気がする。他人から痩せすぎて気持ち悪いっていわれても全然納得できない。どう考えても自分は太っている、っていう。
自分が持ってしまった平均像とか理想像の高すぎ加減(自分では高すぎとは思えない)、そして自己イメージの現実との剥離(自分では剥離してるとは思えない)、この辺が相まって苦しみが永遠に続くわけだ。
これは出来あがちゃった感覚であって他人から指摘されても絶対に治らない。かく言う俺もそうだから。他人からかっこいいって言われることもちょいちょいあるんだけど、まったく納得できない。自分ではとてもそうは思えないから。その上でブサイクである自分のことが嫌で嫌でしょうがない。他人による自分の評価より自分による自分の評価の方が圧倒的に正しいという確信がなぜかある。
ただ治りそうな方法を一つだけ思いついている。実現は難しいけど。
動画や写真で自分のあらゆる場面(裸含む)を大量に写してもらい(他人に)、同様の条件で1000人くらいの同性同世代を写し、それを美醜の序列に従って並べ、その中に自分も当てはめる。これによって自分の位置を正確に把握することが出来る。
鏡は自分を写さないから、これに勝る美醜の評価法はない。
そして、評価が可視化されると、そこで初めて俺はいい意味で諦めることが出来るんじゃないかと思う。美醜に一喜一憂(前髪の流れ一つで外出したくなくなるから)しなくなって、気負いがすっと抜けてホッとするんじゃないかと思ってる。
だけどこのアイデアの実現は難しいだろうなあ、、、。
時代は回ってるだけだと思うけどなぁ。
これまで、女性や女性誌ってのは、女性の地位向上だの。社会進出だの
「自分自身」を高める方向に進んでいたんだけど、
(カップルというならば同姓婚やDINKSというのもあった。)
結婚してなくて、尚且つ子供がいなけりゃクズみたいな社会観が押し寄せてきちゃったわけだ。
だから、自分を向上させるよりも、他人から評価され、愛されてナンボ、という価値観が生まれても仕方がない。
できちゃった結婚も、さずかり婚だのWハッピーだの下らない言葉で装飾しなきゃいけない。
自分自身を向上させて、がんばっても、その子供から(もしくは若い人から)
って言われてオシマイって訳だ。
元増田は「したい」「されたい」って事にこだわっているみたいだけど、
自分がどの方向やゴールを定めているか、というだけで、
自分の「したい」「する」には変わりがない。
女性は「愛されるために」「何かをする」のだから。
運だなんだと言っても、所詮宝くじを買うのとは違って、
努力も認められるし、嫌らしい根回しだってちゃんと効くんだ。
人間関係ってのは単純に運だけで左右される事じゃない。
他者に判断を委ねることと、さほど差異はないよ。
いや、もっと早いかな?
変な横やりが入ってるけどお前は非常に正しい。
特に最後のところ。
人を好きか嫌いかでわける事は本当に大事。そしてそのための理由はいらない。
もし理由をつけると理由の部分のウェイトが大きくなり、好き嫌いの部分の比率が下がる。
そして理由は客観的になってしまう。
こうなると、本人の意志よりも客観的事実が優先されてしまう。
つまり○○さんは助けてくれたから好き、というように。
しかし本当は助けてくれようが何だろうが嫌いと思っちゃえば嫌いなんだ。
理由を考えるということはこの気持ちを抑圧することになる。
そうやって自分発の好き嫌いのが抑圧されている者は、逆に他人から好かれているか嫌われているかに注目してしまうことなる。そしてそのことに一喜一憂する。
こうやってさらに世界に流されるままになる。他人の顔色をうかがって恐怖におびえながら。
これに対する抵抗こそが、とにかく他人に好き嫌いをつけることなんだ。
私見ではあるけれども、穴の位置を気にするようになれば大人だと思う。もちろん、穴の位置っていえばベルトの穴の位置の話だよ。常識です。
いやまあベルトの穴の位置に一喜一憂する様はかえってみすぼらしいというご意見・ご要望はあるかとは思うけれども、ええい、だまらっしゃい。
言わせてもらうならば、穴位置にこだわる人間は「自分の基準/はずれてはいけない自分内基準」と「次なる自分の目標/なるべきゴール」を見定められる人間なのだ。
基準を定められる人間は自分を律することができるし、目標を定められる人間は変革のためにその方法・道筋を考えることができる。
ベルト穴を気にするようになれば大人、というのはこういうわけである。
一方で、便利さが人類を堕落させたことも言っておかねばなるまい。
コットンベルトによく見られるこのフリーアジャストなバックルベルトは自分自身を律するための基準穴が存在しない。その日、そのとき、その気分で位置が決まる。好きになった人が好きなタイプである。ぶらり途中下車の旅である。いい旅夢気分である。
とまれ、フリーアジャストなベルトを締める御仁どもはきまってふくよかか、またはガリガリであまったベルト端をだらりとさげちゃっている。
ふくよかな御仁は自分を律するという概念をもたないのだし、ベルト端をだらりさせてるガリガリ君は身だしなみに対する意識が低いということである。
基準(あるべき姿)を持たず、また目標(なりたい姿)を持たないということでもある。
コットンベルトに支配された彼らが大人になれるのはいつの日か。
それは私にもわからないけど、そういや中学のころベルト半分に折って両手でもって「バチーン!バチーン!」って鞭の音のまね!とかしたよね。いまでもやるけど。
3日前とかに「あ、じゃこの件に関しては俺あとでお前にメールするよ」っていってたし
(結局その件がすぐ後に解決されちゃったからメールの必要性はなくなった)普通に顔合わせて話したりしてたのに
好きな人に朝メール送ったら帰ってきた。多分アドレス変更か大量受信の設定ミスか受信拒否。
真ん中だと気の毒なのとどうしても仕事のことで至急連絡とらなきゃだったから、
もう普通に(恥を捨てて/キモさに自分で引きつつ)ショートメールで「明日の仕事の件ですけど」ってのと
「アドレス変えただろばか」って送ったら「馬鹿ですアドレス変えました」って返事が来た。
夕方偶然仕事先で顔を合わせたら「そういえばメールでいってたやつの変更点さ、」
って普通に話しかけてきた。帰宅途中には電話がかかってきたりして3時間話してた。
脈がない とかじゃなくて興味がない レベルなのかもなーって思った。脈は確実にないね。恋愛的な興味も確実にないね。
まぁ一・二ヶ月に一度しか送らないから脈なんて更にないよね。それに一回フラレ済だから丁度良い厄介払いしたかったのかもね。
多分3日前の「俺あとでお前にメールするよ」メールが普通に私に届いてたとしても、アドレス変更後ので普通に届いてただろうなあ。
そういえば昔、今日のバイトかわってくれませんか?って全く知らないアドからメールがきて「別に構わないけど、君は誰?」ってメールを送り返さなきゃいけなかったことがあったのを思い出した。