はてなキーワード: 量子力学とは
元増田の私は別に怒ってはいないし,たぶん量子力学増田も言葉こそネット的だがカッカはしていないと思う。現時点で文系を名乗ってるのは私一人で
やっぱ文系だなぁという気がする
とレスされたから私のことかと思ったが違うならいいや。ここは排中律を容れない公理系の場かもしれないしね。私一人のために文系の名誉が害されるのは忍びない。
君の感覚の問題でもあるから「何故量子力学に虚数が必要か」っつー話(の概略)に留まるけど、
量子力学の基本方程式(ニュートン力学の運動方程式や電磁気学のマクスウェル方程式みたいなもん)である
という形をしてて(Hはハミルトニアンというある演算子)、時間について1階の微分項を含むわけだ。
1階の時間微分ってのは、古典物理の世界では散逸に対応するんだな。摩擦とか。
そのままだとどうやっても散逸してエネルギーが消失しちゃうんだ。
でも電子はいつまでも原子核のまわりを回ってて、全ての原子が潰れちゃうなんていう現象はこの宇宙では起こって無い。
じゃあどうするかっつーと、1階微分項の係数に虚数を使うしかないんだよ。
そういうものを考えてみると、これがびっくりするくらい実験とピッタリ合うし、未知の現象とかガンガン予測しちゃったんだな。
だからまあよくわかんねーけど正しいとしか思えない、という感じになってるわけだ。
であっても引用文の電磁気学を量子力学に変えればそのまま通る話でしょう。論旨に影響しない。正直いって,あなたが何を言いたいのかわからない。数学は常に現実世界と対応する,数学は世界の射影であると主張したいの? ならヒルベルトから勉強しろと返せば済むんだが。
非対角成分は相互作用項みたいなもんだから、対応する対角項が0だったら意味無し(=固有ベクトルの構造に与える影響無し)というイメージだったけど、そうでもなかったみたいだ。
非対角成分が大きければ0の対角成分があっても固有ベクトルの対応する成分はかなり大きくなる。つまり混ざる。
対角成分は絶対値じゃなくて各成分の差が重要であって、非対角成分は差にinteractするんだな。
考えてみりゃ当たり前で、行列を量子力学のHamiltonianだと思えば、基底状態のエネルギーがいくつだろうと、原点をずらせば常にゼロにできるわけだ。
基底状態と励起状態が混ざるかどうかは、そのエネルギー固有値の差とinteractionの強さの兼ね合いで決まるのが当たり前。
気づくまでに半日くらい色々実験したり考え込んだりしてしまった。
学生時代なら瞬間的にわかったはずだが…。
俺の(元から鈍い)脳もだいぶ鈍ったな…orz
どうせ数学偏重するならまず線形代数だろう・・・という突っ込みは置いておいて。暇な理系大学生が書いたトバシ文章の臭いがするが(自分もそうだから分かる)、敢えてマジレスしてみようか。
理系な科目は数学が出来ればそれでいいって種類のものではないと思うけどな。物理なんかでも、数学的な扱いが出来ないのは困りものだけど数学とは直接関係ない物理固有の考え方ってあると思う。「数式を通さずに理解するということが、物理法則を真に分かるということだ」みたいなことをファインマンも言ってたはず。紙を広げたまま落とすのと丸めて落とすのでは落下の仕方に差が出るけど、その差があるということを理解するのに数学はいるのか?紙の形状と摩擦力等を定義すれば数学的な解析は出来るけど、いつだってそうやって数学を振り回す必要があるのか?数学的な解析は重火器みたいなところがあって、確かに確実に制圧出来るけどフットワークは悪い。大砲だけでなくサブマシンガンも用意するべきだろう。数学的に高度だと物理自体の理解にしばしば邪魔になる。エントリ主は ISBN 9784254130911 みたいな本についてどういう見解を持っているのか聞いてみたい。
化学が量子力学なしでは「分からない」というのはシステムとしてモノを見るという視点が欠けすぎている。例えばマクスウェルの方程式を知らなくても電気回路は「分かる」のだ。
物理の時間を数学に使うとよろし。特にベクトル解析(sufix notationあたりも)と多変数の微分積分も視野に入れて。
で、そして幾何学の方は減らしてもいいのではないか。工学系で幾何学はあんまり使わない気がする(これは私の専攻のせいかもしれないが)
その代わりに、抽象数学に重きを置く。確率は選択にして、けど統計はやらない方向で。
どうせ文系理系なんてつまらない二分野に分けているのだから、そして学問自体も高度化しているのだから、理系は理系で理系にもっと偏重すればいいと思う。
ついでに地歴公民とか世界史は高校ではやらないで大学の一般教養にすればいいと思う。例えば大学で世界史を英語でやらせたりしてもいいんじゃない?英語でできないって云うのは単にできないって思いこんでるのとやらないからであってライティング偏重(かつ読書課題を読んだ上でエッセイを書かせる形にする)でいいと思うよ。英語教育は英語でじゃなく英語で何かを学ぶ形にすればいいんじゃないかな。国文とかは選択にして、けど現状のような授業に出なくても単位をとれるようなものにはしないこと。何度でも言うけどできないのはしないからであってできないからではないから。
高校は完全に理系大学への準備、すなわち大学教育の一年二年の数学の基礎をみっちりたたきこんでしまえばよろし。で大学入試はそれを試験する形にすればいいと思う。その代わり試験は従来のものより長くなるがしょうがないと思うよ。定員集めのために最低限必要な学力がない学生を大学に入学許可するのはどうかと思うけど、そういった最低限の知識がない学生については卒業に必要な単位を取るための必修コースとして数学のコースをとらせればいいと思うよ。まぁ4年以上かかっちゃうけどね。これぐらいに数学がわからないんだったらあきらめた方がいいということ。でも、本当に学びたい人には卒業に時間がかかってしまうけど門扉を開いておくようにしておく。(まぁどうせ留年するかやめていくことになるが)
で大学一年時に、初めて物理学の基礎(数学的に高度でかつ多様な演習を含む。できたら物理の実験の演習もとらせてレポートの書き方と物理学が確からしいことを確認するのにいいと思うよ。)で2-4年は専門課程と一般教養を並行してとりながらやればいいと思う。
化学については分からん。そもそも化学は量子力学なしでちゃんと理解できるのか疑問だけど化学は化学で高校の時面白かったから残してもいいかも。
文系は文系で適当にやらせておけばいいと思うよ。どうせモラトリアムなんだし。そのかわり文系に今理系がやってる物理と化学を必修にした方がいいと思うよ。文系涙目w どうせ大学で何も学ばないんだからもう高校でやらせちゃえよって感じ。高校の先生大変だなー
もう少し大学の内容を高度化すべし。以上。
回答有難う。返答遅れてしまって申し訳ない。
先に結論を言ってしまうと、部分的には分かるものの、全体としてはしっくり来なかった。
ディスカッションが出来るための条件として2つあげます。
1. 議論のテーマについての基礎的な知識があること。
一つ目は、極端な例としては、四則演算も理解してない小学生に量子力学を論じろと言ってもそりゃ無茶だろ、という話です。基礎知識が足りないとディスカッションは出来ません。二つ目は、気持ちの問題です。自分の発言に自信が持てない、話したくない、という人とはディスカッションは成り立ちません。
そして、1と2はリンクしながら悪循環に陥ります。議論が理解できないことでますます自信がなくなっていく、ということです。結果として自分の研究がダメだ、と研究の意義までも見失うこととなります。だから、もう一度スタート地点に立ち返ってみよう、ということです。
ディスカッションが成立するための条件1、2は分かる(実際には条件1は、ディカッションの結果が実践に役立つような"有効な"ディスカッションが成立するための条件であって、教育目的の場合はそのようになる過程であるのだから、出発点では殆ど不要か非常に低いレベルで足りると考えているが、ここでは余計な話である)。分からないのはその先で、条件1、2がディスカッションに必要な要素であるとすると、なんらかの形でこの条件の取得に寄与するようなことでなければ「ディスカッションが出来るようになる」という目的には役立たないわけだが、その後の文章では、また別のことが書いてあるような気がした。
ここまで考えて、こちらの問いが悪かったのかと思った。元増田の言いたいことは、
ではなく、
ということではないだろうか。そして、先のエントリと合わせて考えると、ディスカッションが出来るようになるコツのようなものは結局明かされておらず、元増田の場合は時間が解決したので、その間自信を失わないようにフォローしながら研究を継続させる(継続していれば知識もつくし、自信もつく)手段として、意義を説明するという行為が位置付けられているのではないだろうか。どうだろうか。
質問(2)は、自分の経験上、ディスカッションが出来るかどうかは優秀さとは関係ないと思うので、しっくり来なかった。成績が悪く、知識がすっぽり抜け落ちていても、もの怖じせずストレートに答えられる学生も多い。多いというよりは、そちらが多数派だ。ただ、多数だ少数だと言っても仕方ない話で、違うことを前提にしないといけないのだろうとは思った。
ディスカッションが出来る学生だと、対話によって自分の頭で考える訓練を行うことが出来る(まず考えさせて、その結果をもとに質問等で誘導して、足りない条件や抜け落ちた視点に気づいたり、自分で答えに到達するという経験をさせる。必ず答えを学生本人の口から言わせ、それを肯定するという段階を経由するようにしている。)ので成長が早いのだが、それが出来ないのは勿体ないことだと思う。
また修士課程までは職業訓練の意味合いが大きいので、職場に出た後のことを意識すると(自分が民間出身なので特にこの意識が強いのだが)、そこでは専門的な知識の無い課題に対して、異なる専門家を交えて技術的な意見交換をする場面が頻繁にある。そういった場合に自信がつくまでだんまりを決め込むわけにはいかないので、分からないことに対して、何が分かって何が分かっていないか整理をして、その時点の知見の範囲内で発言するための、分野によらない普遍的な科学的態度のようなものを身に付けて欲しいとは思っている。
対話して誘導するというのは、上記のことを短い時間で経験させるよい方法だと思っているが、万能ではないといったところだろうか。話がそれたが、またなにか気がついたことがあれば教えて欲しい。
元増田です。答えになっているかどうかわかりませんが、書いてみます。
(1)について
基本的に
に同意します。その上で、ディスカッションが出来るための条件として2つあげます。
1. 議論のテーマについての基礎的な知識があること。
一つ目は、極端な例としては、四則演算も理解してない小学生に量子力学を論じろと言ってもそりゃ無茶だろ、という話です。基礎知識が足りないとディスカッションは出来ません。二つ目は、気持ちの問題です。自分の発言に自信が持てない、話したくない、という人とはディスカッションは成り立ちません。
そして、1と2はリンクしながら悪循環に陥ります。議論が理解できないことでますます自信がなくなっていく、ということです。結果として自分の研究がダメだ、と研究の意義までも見失うこととなります。だから、もう一度スタート地点に立ち返ってみよう、ということです。
(2)について
優秀な人が落ちこぼれのことを理解できないのと同じで、ダメ学生だった私も優秀な人のことはよく分かりません。個人的な感想を書きます。
ひとつの指標として、失敗、挫折の程度の問題がある思います。段階的に学習をしていった人は、上で言うような悪循環にならない程度に失敗、挫折を繰り返して成長しているように見えます。悪循環に陥って鬱になる人は、たいてい「研究テーマがチャレンジングすぎる」「あまりに基礎知識が足りない」のどちらかもしくは両方のことが多いです。特に後者は、卒業研究という初めて「自分の」研究というものを持った時点で突然露呈します。テストの点数はそこそこだけど、公式を丸暗記していただけでちゃんと理解していなかったので応用できない、とかそうゆうことです。いきなり、というのがポイントだと思います。
これで答えになってますか?
私たちが真実と考えている事が、理論によって規定されているとすれば、どのようにして真実を哲学の基礎に据えることができるのでしょうか。探求され理解されるのを待っている宇宙が存在すると考えているという意味で、私は実在論者であるといえるかもしれません。すべてが想像の産物であるとする唯我論者の立場は時間の無駄であると考えています。そのような原理に基づいて行動する人はいません。しかし、理論がなければ、宇宙について何が真実であるのか理解できないのです。
そこで今まで単純すぎるとか幼稚であると書かれてきましたが、私は、物理理論とは観測結果を記述するための数学的なモデルに過ぎないという立場をとります。ある理論がよい理論であるのは、すっきりしたモデルであり、広い範囲の観測を記述し、新しい観測結果を予言できる場合です。
それを越えて、その理論が真実に対応しているのかと尋ねることは意味がありません。なぜなら、私たちは真実とは何かを知らないからです。
科学理論をこのようにとらえると、私は概念道具主義者、あるいは実証主義者になるかもしれません。実際その両方で呼ばれてきました。私を実証主義者と呼んだ人たちは、実証主義は時代遅れであると付け加えました。これも軽蔑する事で反論するということのもうひとつの例です。過去の知的流行であったという点では、私は時代遅れかもしれません。
しかし今まで簡単に述べた実証主義的な立場だけが、宇宙を記述して新しい法則と手法を探している人がとりうる立場だと思います。
モデルに依存しない真実の概念が存在しない以上、真実に訴えかけても駄目なのです。
私の意見では、科学哲学者が量子力学や、不確定性原理に対して抱いている困難の根本的な理由は、未だに明らかにされたことのない、モデルに依存しない真実があると信じていることだと思います。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2009/01/post-d30b.html
前節で述べたように、量子力学が非決定論であるということの意味は、個々の選択機会における結果が予見できないという意味である。このような選択機会のアンサンブルを考えると、その結果の分布は、完全に決定論的な法則によって記述される。
このことから、たとえ、量子力学が、自由意志の起源にはなり得たとしても、その自由意志は、本当の意味では「自由」ではない。何故ならば、量子力学は、個々の選択機会の結果は確かに予想できないが、アンサンブルのレベルでは、完全に決定論的な法則だからだ。
このことについて、第6章で紹介した「中国語の部屋」(Chinese Room)の議論を提出したサール(Searle)はその著書「心、脳、科学」の中で、明確に述べている。
たとえ物理的粒子の振舞いの中に何らかの不確定性の要素があり、その予測は統計的なもののみによって可能であったとしても、粒子の振舞いの予測が統計的にのみ可能であるという事実からは、人間の心がその統計的にのみ決定された粒子に命じてその本来の経路から外れさせることが可能であるという事実が帰結するわけではありません。それゆえに、この統計的不確定性という事実のみから人間の意志の自由の可能性は生じ得ません。要するに、不確定性という事実は、人間的自由が持つ何らかの心的エネルギーが分子を動かし、それがなければ別の方向に行っていたはずであったその分子の運動の方向を変えるというようなことが可能である証拠にはならないのです。
よりあからさまに言えば、量子力学に基づく自由意志は、次の「アンサンブル限定」(ensemble restriction)の下にあることにある。
アンサンブル限定(ensemble restriction)
個々の選択機会において、その結果をあらかじめ予想することはできない。しかし、このような選択機会のアンサンブルを考えると、その全体としての振る舞いは、決定論的な法則で記述される。
アンサンブル限定の付いた自由意志においては、個々の選択機会については、あらかじめその結果を完全には予測できないという意味でそこには「自由意志」が存在するように見える。だが、同じ様な選択機会の集合(アンサンブル)を考えると、そこには決定論的な法則が存在し、選択結果は完全に予測できるのである。
あなたが、ある瞬間に意志決定を行うとしよう。その選択肢は、AかBかという簡単なものでも、あるいはもっと複雑なものでも良い。あなたの意志決定が量子力学的なプロセスに基づくものであるとすると、その瞬間の意志決定の結果が、どのようなものになるかは、あらかじめ予想することはできない。現在のあなたの脳の状態をいくら精密に測定したとしても、予想することは不可能なのだ。これが、量子力学の非決定性である。
さて、そのような意志決定を行うあなたの「コピー」を沢山用意したとする。これが、すなわちあなたのコピーからなるアンサンブルだ。このアンサンブルの中の、ある特定の「あなた」の選択は、上に述べたような理由で予想することはできない。しかし、全く同じような「あなた」のコピーからなるアンサンブル全体としての振る舞いは、完全に決定論的な法則で予測することができるのだ。
必ずしも正確とは言えない比喩だが、一人一人が何歳で結婚するかという問題を考えて見よう。私たち一人一人は、何歳で結婚するかを、自由意志に基づいて決定していると思っている。確かに、ある人が何歳で結婚するかは、完全に予想することは不可能である。だが、社会の中のこのような人々のアンサンブルをとってくると、人々が確率的に何歳で結婚するかということについては、厳密な社会科学的な法則が成立するように思われる。アンサンブル限定のついた自由意志は、たとえて言えばこのようなものだ。つまり、個々の選択機会においては、自由があるように見えるのに、そのような選択機会の集合をとってくると、その振る舞いは決定論的で、自由はないのである。