私たちが真実と考えている事が、理論によって規定されているとすれば、どのようにして真実を哲学の基礎に据えることができるのでしょうか。探求され理解されるのを待っている宇宙が存在すると考えているという意味で、私は実在論者であるといえるかもしれません。すべてが想像の産物であるとする唯我論者の立場は時間の無駄であると考えています。そのような原理に基づいて行動する人はいません。しかし、理論がなければ、宇宙について何が真実であるのか理解できないのです。
そこで今まで単純すぎるとか幼稚であると書かれてきましたが、私は、物理理論とは観測結果を記述するための数学的なモデルに過ぎないという立場をとります。ある理論がよい理論であるのは、すっきりしたモデルであり、広い範囲の観測を記述し、新しい観測結果を予言できる場合です。
それを越えて、その理論が真実に対応しているのかと尋ねることは意味がありません。なぜなら、私たちは真実とは何かを知らないからです。
科学理論をこのようにとらえると、私は概念道具主義者、あるいは実証主義者になるかもしれません。実際その両方で呼ばれてきました。私を実証主義者と呼んだ人たちは、実証主義は時代遅れであると付け加えました。これも軽蔑する事で反論するということのもうひとつの例です。過去の知的流行であったという点では、私は時代遅れかもしれません。
しかし今まで簡単に述べた実証主義的な立場だけが、宇宙を記述して新しい法則と手法を探している人がとりうる立場だと思います。
モデルに依存しない真実の概念が存在しない以上、真実に訴えかけても駄目なのです。
私の意見では、科学哲学者が量子力学や、不確定性原理に対して抱いている困難の根本的な理由は、未だに明らかにされたことのない、モデルに依存しない真実があると信じていることだと思います。