はてなキーワード: 希薄とは
労働基準法違反をしている会社のリストアップをして、そこに抗議の電話やFAXをするだけだし、その企業のサイトに書き込んだり、あちこちの掲示板に書き込むだけだけだから業務妨害にはならないよ。もちろん、バカが暴走して捕まるだろうけど・・・
つながりは希薄でいいんですよ。労働基準法違反を許さないという事のみで繋がっていればそれでいい。妙に連帯しすぎると、労働基準法違反を叩いてるだけという状態から、なぜか「戦争反対」なんかに向かっちゃうから。世の中の労働基準法違反がなくなるまで、労働基準法違反を叩き続けるという1点だけの為に存在する組合は無いのだろうか
でもあれだな。
つながりが希薄な分、誰か一人を業務妨害で訴えて吊し上げるだけで、
他のみんなはびびって活動を放棄するんじゃないか?
現実の子供を守るために漫画・アニメを規制する意味なんて無いと思う。
なにをしても憂鬱でやる気が起きなかったのだが、一週間ほど経って気晴らしにオナニーをしようと思い、
下半身に血が集まる様子がない。明らかにインポテンツだった。今ならEDの方が一般的だろうか。
男性諸氏ならわかると思うが、勃たないというのは完全に自信を喪失するものだ。
ましてそれが思春期真っ盛りの高校生の頃に起きたら、どうなるか考えてもらいたい。
恥ずかしい話だ。失恋した話な上、下の話だ。
親に相談することもできず、保険証からばれてしまうから医者にいくこともできない。
友達に相談して解決するようなことでもない。
結局自分一人で抱え込むことになった。
失った自信を取り戻すため、また純粋に溜まっているのに出せないという不快感からオナニーの訓練をした。
思いつくものはとにかく挑戦してみた。
洋モノやコスプレといったライトなものから獣姦やら同性愛(女×女、男×男)やらといった高校生から考えたらディープなものまで
さまざまな世界を試してみたが一向に勃つ様子がない。
その中でも特にレイプものには全く反応しない、どころかか途中で気分が悪くなってしまった。
そうして訓練したりしなかったりで一ヶ月くらい過ぎて、
普通の、三次元のエロ本で勃つようになるまでさらに一ヶ月を要した。
この話のキモは、二次元で勃ってからと三次元で勃つまでにあるタイムラグである。
両方とも脳はエロいものであると認識していた。ドキドキしながらオカズを見ていた記憶がある。
だが、下半身を司る脳の一部は三次元では勃たせず、二次元では勃たせるという命令を送っていたのだ。
もちろんこれは一般化できることではないし、この時の心理状況を解析できるほど大脳生理学も進歩していないだろう。
つまりは科学的根拠すら希薄で、さらに言えば失恋という特殊な精神状態だったというおまけ付きだ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080212-00000013-kyt-l26
そういうことなんだと思う。
多くの人は、本当はいじめを無くそうなんて思っちゃいないってことなんだと思う。
そしてそういう人は、いじめを何とか無くそうとあがいている人に冷や水を浴びせる。
これこそがいじめの本質なのではないだろうか。
いじめはいじめっ子といじめられっ子以外の大多数を占める第三者によってしか知見できないというのに。
にも関わらず、その鍵を握る第三者の致命的なまでの当事者意識の希薄さ。
そしてそういう第三者が「いじめられっ子がバッジを外せるわけがない」と平然と言ってしまう。
それが「いじめられっ子を救える人はいない」と言っているのと同義であることすら理解していない。
この記事にネガコメをする人達がいる限り、いじめは無くならないだろうと確信する。
俺は関係ないって?
君がそう思うのなら、いじめは確実に無くならない。
おばあさんが猫をひざに抱えて小さな窓口にひとり座っている光景が思い浮かばないだろうか?
このイメージはあながち間違いではない。
タバコを売るという行為は戦後は戦争で旦那をなくした寡婦に与えられた。
また、障害児を抱える世帯などからたばこ小売販売業許可がおりていたという事実があった。
だが、時代は代わりタバコを買うのはコンビニや駅の自動販売機から。
あげくにはパチンコの景品から。
買う人はどこで買っても一緒だと思っている。
タバコは税収以外に支えているものがあった。
だがその支えているものを無視してどこでも売るようになってしまった昨今、
タバコ販売事業者が社会的に役に立っているといえる根拠はどんどん希薄になってしまった。
もういいんじゃないだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20080108222054
だけど、少しでもその距離を縮めるために女性の気持ちというものを考えてみたいと思う。
いきなり反感を買いそうなことを書いてしまうけれど、多くの女性には親友と呼べる者がいないと思う。中には女性同士、さらには驚くべきことに男女の深い友情を築き上げている人もいるかもしれない。しかし大抵の場合、女友達のつながりというのは希薄だ。学校でも会社でも、女同士はすぐに仲良くなる。そして一緒に行動するが、その友情はふとしたきっかけで簡単に壊れてしまいかねない。
たとえばそれは…原因はたくさんありすぎて挙げきれない。
女同士の友情が、恋愛によって疎遠になったり、あるいは決裂したりしてしまうことも少なくない。(「多くの」以下略)女性にとっては性欲>友情だからだ。女性は、女性よりも男性のそばにいることを望む。しかし、男性は女性の気持ちなど理解できない。男性は「スイーツ=喜ぶ」「優しい=喜ぶ」など、体験やノウハウなどから記号的に認識している。(もちろん性別を越えた親愛の部分もあるが、ここでは性差を考えるために恋愛という側面についてのみ考える。)ましてや性欲については想像しかできない。愛情と理解は別物である。愛した女性から「私のこと全然わかってくれてない」と言われた男性は、どれくらいいるのだろう。しかも彼女たちは語らず無言のうちにそれらを察するように求める場合がある。
よく言われることだけれど、女性は常に共感と賞賛を得たいと考えている。女性同士はそのことを本能から理解しているのだが、相手を賞賛することはプライドが許さないので会話は実にスムーズに進まない。一方男性は、そういった会話に意味を見いだせないが、無駄な衝突は避ける傾向がある。彼女の愚痴に、ついついあいづちや共感を返して疲れてしまう。誰にでもわかるようなことやできるようなことを賞賛と共感を得たいがために繰り返すからである。意見や反論はなおのことよくない。女性が男性に比べて流行の服やスイーツやに敏感なのも、共感と賞賛を求める性質から来ているのかもしれない。
●女性は、共感と賞賛を求めている。
●女性は、情よりも欲を優先する。
http://anond.hatelabo.jp/20080108170454
http://anond.hatelabo.jp/20080108222054
ブックマーカーである自分に、増田の気持ちはおそらくわからない。
だけど、少しでもその距離を縮めるために増田の気持ちというものを考えてみたいと思う。
いきなり反感を買いそうなことを書いてしまうけれど、多くの増田には親友と呼べる者がいないと思う。中には増田同士、さらには驚くべきことに自作自演のTBで深い友情を築き上げている人もいるかもしれない。しかし大抵の場合、増田同士のつながりというのは希薄だ。増田同士はすぐに仲良くなる。そして一緒に行動するが、その友情はふとしたきっかけで簡単に壊れてしまいかねない。
たとえばそれは、ブクマによって。
増田同士の友情が、ブクマによって疎遠になったり、あるいは決裂したりしてしまうことも少なくない。(「多くの」以下略)増田にとってはブクマ>TBだからだ。増田は、増田よりもブックマーカーのそばにいることを望む。しかし、ブックマーカーは増田の気持ちなど理解できない。ブックマーカーは「5user以上ついてる=面白い」「アルファブロガー=とりあえず付けとけ」など、体験やノウハウなどから記号的に認識している。(もちろん立場を越えた親愛の部分もあるが、ここでは立場を考えるためにブクマという側面についてのみ考える。)ましてや自作自演のTBについては想像しかできない。スターとブクマは別物である。ブクマした増田から「誤読してる馬鹿が多すぎ」と言われたブックマーカーは、どれくらいいるのだろう。
よく言われることだけれど、増田は常に共感を得たいと考えている。増田同士はそのことを本能から理解しているので、会話は実にスムーズに進む。だがブックマーカーは、そういった会話に意味を見いだせない。増田の愚痴に、ついつい意見や反論を返してしまう。相づちを打つだけでいいのに。増田がブックマーカーに比べて流行のライフハックやロハスに敏感なのも、共感を求める性質から来ているのかもしれない。
だけど、少しでもその距離を縮めるために男性の気持ちというものを考えてみたいと思う。
いきなり反感を買いそうなことを書いてしまうけれど、多くの男性には親友と呼べる者がいないと思う。中には男性同士、さらには驚くべきことに男女の深い友情を築き上げている人もいるかもしれない。しかし大抵の場合、男友達のつながりというのは希薄だ。学校でも会社でも、男同士はすぐに仲良くなる。そして一緒に行動するが、その友情はふとしたきっかけで簡単に壊れてしまいかねない。
たとえばそれは…原因はたくさんありすぎて挙げきれない。
男同士の友情が、恋愛によって疎遠になったり、あるいは決裂したりしてしまうことも少なくない。(「多くの」以下略)男性にとっては性欲>友情だからだ。男性は、男性よりも女性のそばにいることを望む。しかし、女性は男性の気持ちなど理解できない。女性は「ラーメン=喜ぶ」「巨乳=喜ぶ」など、体験やノウハウなどから記号的に認識している。(もちろん性別を越えた親愛の部分もあるが、ここでは性差を考えるために恋愛という側面についてのみ考える。)ましてや性欲については想像しかできない。愛情と理解は別物である。愛した男性から「俺のこと全然わかってくれてない」と言われた女性は、どれくらいいるのだろう。しかも彼らは語らず無言のうちにそれらを察するように求める場合がある。
よく言われることだけれど、男性は常に共感と賞賛を得たいと考えている。男性同士はそのことを本能から理解しているのだが、相手を賞賛することはプライドが許さないので会話は実にスムーズに進まない。一方女性は、そういった会話に意味を見いだせないが、無駄な衝突は避ける傾向がある。彼の愚痴に、ついついあいづちや共感を返して疲れてしまう。誰にでもわかるようなことやできるようなことを賞賛と共感を得たいがために繰り返すからである。意見や反論はなおのことよくない。男性が女性に比べて流行の車やラーメンやに敏感なのも、共感と賞賛を求める性質から来ているのかもしれない。
●男性は、共感と賞賛を求めている。
●男性は、情よりも欲を優先する。
同意。特に、ログが記憶されづらい匿名掲示板は悪影響が大きいと思う。
だけど、少しでもその距離を縮めるために女性の気持ちというものを考えてみたいと思う。
いきなり反感を買いそうなことを書いてしまうけれど、多くの女性には親友と呼べる者がいないと思う。中には女性同士、さらには驚くべきことに男女の深い友情を築き上げている人もいるかもしれない。しかし大抵の場合、女友達のつながりというのは希薄だ。学校でも会社でも、女同士はすぐに仲良くなる。そして一緒に行動するが、その友情はふとしたきっかけで簡単に壊れてしまいかねない。
たとえばそれは、恋愛によって。
女同士の友情が、恋愛によって疎遠になったり、あるいは決裂したりしてしまうことも少なくない。(「多くの」以下略)女性にとっては恋愛>友情だからだ。女性は、女性よりも男性のそばにいることを望む。しかし、男性は女性の気持ちなど理解できない。男性は「貴金属=喜ぶ」「甘い言葉=喜ぶ」など、体験やノウハウなどから記号的に認識している。(もちろん性別を越えた親愛の部分もあるが、ここでは性差を考えるために恋愛という側面についてのみ考える。)ましてや月経や妊娠・出産については想像しかできない。愛情と理解は別物である。愛した女性から「私のこと全然わかってくれてない」と言われた男性は、どれくらいいるのだろう。
よく言われることだけれど、女性は常に共感を得たいと考えている。女性同士はそのことを本能から理解しているので、会話は実にスムーズに進む。だが男性は、そういった会話に意味を見いだせない。彼女の愚痴に、ついつい意見や反論を返してしまう。相づちを打つだけでいいのに。女性が男性に比べて流行のファッションやスイーツに敏感なのも、共感を求める性質から来ているのかもしれない。
●女性は、共感を求めている。
・2ちゃんのコテは要するに殆どいない、匿名基本だし、いてもいい加減でいつでも変わってるから人物像の類推にははてぶと比較にならないってこと。はて部も正直とは限らないけど、基本的に全員持ってるし、そうそう変えられない、変える人少ないだろ。
・非公開にしたらそもそもはてぶに参加できないわけだからそれは除外していいことじゃないかな。書きかえっていっても今はウェブアルカイブもあるし、早々責任が逃れられるわけじゃない。リスクはやっぱり2ちゃんより高い。
・IDについては、まあご勝手にと言うところだけど、自我が希薄になるよ。自分ももうここは基本必要なくなったし。ちゃんと自分のサイトで書いたほうがいい。誠実さやメリットの問題ではなくてね。
・イナゴの定義も変わるんだろうけど、そしたらまた新しいレッテルができると思うよ。
そんなとこ。
(追記)
はてぶの欺瞞を追及するのはいいことだと思うけど2ちゃんとは質量が違いすぎるから比較するのは無理あるよと。むしろイナゴよりはてなという枠がある上でのいじめっぽい陰湿さがある。2ちゃんは枠から飛び出した上での反社会性だと思う。
個人的にでしかないが、そういう風に思う。
結局、彼らの主眼にあるのは「愛される」ことである。「既に愛してしまっている男(女)から愛されたい」という欲望は至極真っ当なものだとは思われるが、モテ非モテ論者は、その階梯がひねくれているように思われる。
要は、まず、より多くの人から「愛されたい」。そして、そこから選別した相手を「愛したい」。そうして、選別した相手からは特にこの上なく「愛されたい」。この順番で、自身の強烈な信念を貫く。
別にそれが、良い悪いとかではない。むしろ指摘しておきたいのは、多くの人に「愛されたい」という欲望は十分に社会化された大人こそ抱くだろうし、選別した相手を「愛したい」/相手に「愛されたい」という欲望は道徳的/倫理的である。僕らは他人に愛されるように(選別/採択されるように)仕事をするし、結婚した夫婦は愛し合っている。
ただ、モテ非モテ論者たちは、選別した相手を道徳的/倫理的要請から「愛したい」のだが、それは相手を「愛している」ことを決して意味しない。彼らは、「愛する」という道徳の破綻、倫理の破綻、そして論理の破綻の体験が希薄であるから、どこまでも道徳的、倫理的、論理的に振舞い続けることが可能である。彼らの「愛したい」/「愛されたい」という欲望は、すなわち「愛さなければならない」/「愛されなければならない」という道徳的/倫理的要請から来るものである。
愛に関する、醜い、しかし誠実な文学なり映画なりに触れたところで、モテ非モテ論者たちは「あぁ、私はあの人を愛している」と思い込みたいための燃料としてそれを消費するに過ぎないのであって、愛に関連した観念的体験をするわけではない。想起する前後の文脈にもよるのだが、次の一文に何の違和感も持たない人を、僕は「愛を知らない人」と言って憚らない。
「そうして、私はやっとのことで、彼のことを愛することができるかもしれないという期待を抱くことができるようになったのだった」
実に、愛のない一文である。
ともあれ、多くの愛が残酷に終わりを告げるのと同じように、仮に愛する能力や愛される能力なるものがあるとして、それらは残酷に不平等に与えられていることは自明だろう。そのような理不尽な世界で生きなければならないことをやり過ごすために、モテる、モテない、モテたい、モテたくない、といった不毛な議論に耽ることを、否定することは決してできない。
現に、僕もこうして、どこぞの誰かに「愛されたい」ために、ここで日記を書いているのだ。ここに日記を書くことが方法論として適切かは別として、僕を満たす強烈な自己愛という病が、「この僕こそが愛されなければならない」という要請をがなり立て続けている。
あぁ、僕は何故、僕を愛してしまっているのだろう。
YouTube - Children See. Children Do.
「子供の頃、親から厳しく育てられた」 と言う受刑者が少なくないのに気づいたのは、受刑者たちとの面接を始めてからしばらく経った後のことでした。
最初のうちは、厳しく育てられた者がどうして非行や犯罪など悪いことを繰り返すのだろうかと、その意味がよく分かりませんでしたが、
聞いているうちに、それは親からの体罰や虐待を受けて育てられたということでした。
行為障害のある非行少年や反社会性人格障害をもつ犯罪者に特徴的なことは、
幼児期から周囲との暖かい人間関係が妨げられ、正常な感受性や良心や道徳心が育たず、
他人の苦しみや悲しみに無関心で、相手に苦痛や被害を与えても、相手の痛みが分からないなど、
よい対人関係を続けるのに必要な感受性の希薄さが感じられることです。
自分と付き合う人間は、自分の利益に役立つ間だけ価値のある人であり、相手を道具として利用するだけの関係でしかありまえせん。
昨年6月に奈良県で起きた事件は、16歳の少年が自宅に放火して、継母、弟、妹が亡くなるという悲劇を招いた。
その少年には4歳のときから勉強を強要し、暴力を振るう父親への憎しみがあった。
草薙さんの著作は、少年の供述調書などを紹介しつつ、殺人へと到る心境を綴った少年直筆の「殺人カレンダー」を公開している。
「僕はこれまでパパから受けた嫌なことを思い出しました。パパの厳しい監視の下で勉強させられ、怒鳴られたり蹴られたり、本をぶつけられたりお茶をかけられたりしたことを。
なんでパパからこんな暴力を受けなければならないんや。一生懸命勉強しているやないか。
奈良の少年放火殺人 鑑定医と著者宅捜索 本出版で地検 供述調書漏えい容疑
「子は親の鏡」子どもたちはこうして生き方を学びます(皇太子紹介の詩) - 踊る小児科医のblog
批判ばかりされた子供は、非難することをおぼえる。
殴られて大きくなった子供は、力に頼ることをおぼえる。
笑いものにされた子供は、ものを言わずにいることをおぼえる。
皮肉にさらされた子供は、鈍い良心の持ち主となる。
しかし
激励を受けた子供は、自信をおぼえる。
寛容にであった子供は、忍耐をおぼえる。
賞賛を受けた子供は、評価することをおぼえる。
友情を知る子供は、親切をおぼえる。
安心を経験した子供は、信頼をおぼえる。
可愛がられ 抱きしめられた子供は、
ドロシー・ロー・ノルト
Amazon.co.jp: 子どもが育つ魔法の言葉 (PHP文庫): ドロシー・ロー ノルト,レイチャル ハリス,Dorothy Law Nolte,Rachel Harris,石井 千春: 本
Amazon.co.jp: いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳: Martin H. Teicher,友田 明美,マーチン・H. タイチャー: 本
児童虐待が脳に残す傷 M. H. タイチャー:日経サイエンス
私たちマサチューセッツ州ベルモントにあるマクリーン病院とハーバード大学の共同研究グループは,
虐待の影響を研究して,これとは少し違う結果を得た。子どもの脳は身体的な経験を通して発達していく。
被虐待児は、他人の不幸を喜ぶ冷酷な世界でも生き抜くように適応
極端なストレスは、さまざまな反社会的行動を起こすように脳を変えていく。
ホルモンの量が変化し、子どもの脳の配線を永久に変えてしまう。
しかし、これは本人にとっては”適応”なのだ。
他人の不幸を喜ぶような冷酷な世界でも生き抜けるように適応しうるのだ。
適切な世話をし、激しいストレスを与えないことが子どもの脳に大切だと私たちは考えている。
そうすれば、左右両半球の統合もうまくいき、子どもは攻撃的にならずに、 情緒的に安定していて、
はてなブックマーク - 心が傷つけば脳にも傷がつく-中日新聞-
Amazon.co.jp: 毒になる親―一生苦しむ子供 (講談社プラスアルファ文庫): スーザン フォワード,Susan Forward,玉置 悟: 本
私は私のことをします。ですから、あなたはあなたのことをして下さい。
ヒラリー・クリントンは、「3歳までの経験が将来の発育に重要で、平和な市民に育つか凶暴な市民に育つかを決める」と主張し、
とにかく世界は動いている
で、今度は何処のソビエト連邦ですか?になるわけなのですが
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007112901000732.html
宮崎県の東国原英夫知事は29日、徴兵制に賛意を示したとされる発言について「徴兵制を容認していない。戦争に直結するものでは全然ない」と弁明した。同時に、若者に一定期間、強制的に農業を体験させる「徴農制」などの仕組みが必要との考えを強調した。
東京都内で開かれた「道路整備の促進を求める全国大会」終了後に報道陣に答えた。
東国原知事は「徴兵制」発言について「社会のモラルハザード、規範意識の欠落、希薄化はどういうところで補うのか。学校教育が補えない中で、心身を鍛錬する場が必要ではないかと言いたかった」と釈明。
「この国の道徳観の崩壊を心配しての発言と解釈してほしい」とした上で、知事は「例えば徴農制とかで一定期間、農業を体験するとか、介護、医療、災害復興の手伝いなどをある程度強制しないと今後の担い手不足、社会構造の変化に付いていけないと危惧している」と強調した。
調教をしたいと言うということなんだろうな。
集団の中の孤独が苦手だ。
学校で、アルバイト先で、いつもこの問題が自分を苦しめてきた。
周りの人間が楽しそうに騒いでいる中で、一人でいることがどうしてもできない。落ち着かない。
とにかく誰かに話しかけてしまう。話すこともないのに話しかけてしまう。
完全に八方美人になっている。後で思うと、自分が本当に嫌になる。
でも集団の中に属している時は、気分が躁鬱の様な状態になっている。
一人でいることがすごく辛いし、逆に他人と話しているとすごく楽しい。
自分は人が大好きなのかも知れないとも思ったが、集団から一度離れてしまうとそんなことはなくなる。
学校でもバイトでも、辞めた後は殆ど誰とも連絡を取らなかった。
だから集団の中に居たときに出来た友人とは、すぐに友人ではなくなった。
そういうことが環境を変える度にあった。
そこでも自分は気付いたら八方美人になっていた。精神的には他者に依存していた。
半年ぐらいしか勤めていないが、最後の方は完全に常に躁状態で、
当時はここまで自己分析できていなかったのだけど、自分が自分のコントールの範疇に収まっていない様な、
とにかくこのままではおかしくなってしまうんじゃないか、という様な漠然とした不安を感じて仕事を辞めていた。
だから今度は、一人で作業する様な種類のバイトをすることにした。
それは間違っていなかった様で、職場で嫌な自分が勝手に暴走して振る舞うという事はなく、
割と淡々と過ごせていた。
従業員が殆ど年の離れている壮年期の方々であったことも、関係があったと思う。
1年間人との関係が希薄で殆ど一人だったので、今度は集団の中でも一人でいられる自信があった。
でも駄目だった。
自分と同世代の若い人達がわんさか騒いでいるようなところだった。
最初の内しばらくは耐えようとした。
読書をして自分の世界に篭もろうともしてみたが、集団の喧騒の中では文章が全然頭に入って来なかった。
ちなみに集団が全部苦手なのではない。
例えば電車の中では普通に読書できるし、電車の中の人がみんな話していたとしても同じだと思う。
見知ってしまった人間だからかもしれない。歳が近いからかもしれない。正直これはよく分からない。
破裂しそうな気持ちを溜め込んでいたら、ある日話しかけてくれた人がいた。
それまでせき止めていた気持ちが一気に崩れ、雪崩の様にその人に覆い被さった。
その後は連鎖的に、自分でも信じられないほどの積極性で色んな人に話しかけてしまい、
結果的にまた八方美人になってしまった。
今はまたその環境を離れて、前やっていた一人作業のバイトをしている。
今度集団に属する時、果たして自分はまた八方美人になってしまわないだろうか。
自分は元々依存心がすごく強い人間だったけど、年を重ねるごとにそれは弱くなっているし、
八方美人が他者への依存と考えれば、依存心さえ弱くなれば八方美人ではなくなる気がする。
何より今こうして平穏な心持ちでひとりで過ごせている。
あの集団の中で感じていた圧迫感、焦燥、躁鬱がまるで嘘の様だ。
自分は成長したんじゃないか?精神的に自立したのではないか?
でも忘れてはならないのが、以前もこういう風に感じていたという事だ。そして失敗をしている。
「集団の中の孤独に耐える」ではなく「集団の中の孤独に平然としていられる」ようになる為には、
どうしたらいいんだろう…
小学生のころは、給食を残してよく昼休みまで居残りさせられたものだった。
どうしてもダメだったのが、血である。パック入りの血は毎日の献立に必ず組み込まれていて、何とも逃れようがなかった。
血を飲めずに俯く私を担任が呆れて見つめているうちに、昼休みは終わる。そんなことは頻繁にあって、おかげで私は昼休みに友達と遊んだ記憶が希薄である。
給食を残した児童を拘束するのは、まったく人権を無視した扱いだと思う。実際、現在の小学校ではそんなことはほとんど行われなくなったと聞く。
担任や両親はことあるごとに、血は体にいいだの、血を飲むと背が伸びるだのと言う。しかしどうも、あのドロッとした喉越しといい、鉄臭さといい、到底受け付けられるものではなかった。
飲んだあとに口の端でパリパリに乾いて固まるのも嫌だった。
クラスのほかの子供たちが抵抗なく、むしろ美味そうにストローに吸いついているのが不思議でならなかったものだ。
それが、血も案外悪くないなと思い始めたのは成人してからのことである。友人と旅行をしたおり、立ち寄った牧場で処女の搾りたてを振舞われた。
その時の衝撃は今でもはっきり記憶にある。
高原の清冽な空気の中で味わったそれは、ほのかな温もりと優しい喉越し、豊かな香りと甘み。濃厚な旨みと、決してくどく感じない鉄分。鮮やかな生命の味がした。
血とはこれほど美味いものだったのかと、胸が熱くなった。それまで飲んでいたのは血ではなかったのだとしか思えなかった。
もし給食の血がこんなに美味かったなら、その後の人生も今とは全く違ったものになっていたのではないか。そんな気さえした。
「俺もこの味に感動してこの仕事始めたクチでね。そう言ってくれると嬉しいよ」
彼の話では、給食や店頭で一般的な血は、凝固抑止剤や安定剤、乳化剤のせいで味や香りが随分犠牲になっているという。また、搾りたてと違って冷蔵されているため温度が低い。本来、血は搾りたて無調整でまだ温かいところを飲むのが一番であって、大量流通には向いていないのだ、と。
血は、ストレスを与えるだけ味が落ちる。だから彼の牧場では、なるべく処女を優しく扱う。そうしてのびのび育て、血を搾る時には眠らせて、その間に行う。リラックスした処女からは、私が飲んだような極上の血が採れるのだそうだ。私はその瞬間を思い浮かべてみて、その美しさ、荘厳さに思わず天を仰いだ。告白しよう、同時に股間の一物も天を仰いでいたことを。
飲む人に優しいのではなく、血を流してくれる処女に優しい、そんな信念のあるこの牧場に対し大いに尊敬の念を抱いたものであった。
私が処女の生き血を求めて夜をさまようようになったのはそれからである。以来、背も伸びて体調もすこぶるいい。大げさではなく、人生観そのものが変わった。
まるでおとぎ話の姫君のように静かな眠りにつく、清らかな乙女の首筋から鮮血を口にするとき、私はそこにこの世の神秘、そして神の姿を見ずにはいられない。
ただ、生活が夜型になったお蔭で、日光にはすっかり弱くなったのは少し困りものである。サングラスが手放せなくなった。
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のちのタモリである。
第二回ファック文芸部杯参加作品
2ちゃんねらは統率された集団じゃない
要約力に嫉妬。
2chが統率された集団にならないのは、2chがもともと、集団を作るのを嫌う人の集まる場だからだろう。自由主義、個人主義、反権威主義者が多い。まとまったとしても、つまらなかったらすぐに抜けてしまう。そういう奴らが、自由な空気に惹かれて居ついてる。
(板ごとの分割統治、専ブラによる「板住人」意識の希薄化=「スレ住人」意識の強化などで、2ch全体での仲間意識は希薄になってるしな)
同じネットコミュニティでも、mixiみたいな他人と協調するのが好きな奴の集まりとか、Yahoo!のようなルールによって統制された集団ならば、宗教化する可能性は否定は出来ないだろうな。
ものごころついたとき、認識した自分像は、身体が希薄で精神偏重型だった記憶がある。身体はリアルではなく精神で起こることだけがリアルだった。身体と精神は別物だったし、身体で何かが起こっていても精神がそれを認識していなければ何も起こっていないのと同義であった。身体は精神の操るマリオネットであり、時に私はマリオネットを放り捨て、精神だけが作用する世界に潜り込むこともあった。
その当時とても不思議だったのは、私の身体と他の人の身体が入れ替え不可能であり、我々の精神が溶け合うことや触れあうことがあり得ないという事実だった。
目を開けるとサイズの合わないマリオネット。見覚えのない顔。手の長さも足の長さも私が認識しているものとは違うという事実。それは私にとってストレスだった。精神の感じる身体と、実際の身体の間の隙間には、粘つくゲルが詰め込まれていて、その感覚はとても不快だった。痛みさえも私の痛みではなく、私の操るマリオネットの痛みだった。私はマリオネットを操りながら、痛みに苦しむマリオネットを眺めていた。マリオネットは私の意志には関係なく、泣き、笑い、怒り、人を傷つけたりもする。私は制御不能になったマリオネットをただ眺めている。それを制御しているのは誰?と思いながら。
人に見られるのはマリオネット、人に愛されるのもマリオネット、それを後ろで見る私。叫べども叫べども、人が見るのはマリオネットでしかない。何度叫んだことか「私を見て、私を愛して」と。しかし、誰もマリオネットの後ろに立っている私には気づいてくれなかった。
精神の認識する身体と、実際の身体が一致するのは、強い刺激が与えられたときだけだった。痛み、苦しみ、快楽……精神の認識する身体を取り囲むゲル状のものがない状態は快適だった。ゆえに私は強い刺激を求めて、様々な問題行動に嗜癖していくことになる。
男は、マリオネットに彼の中の何かを投影し、鏡になったマリオネットを抱いた。マリオネットは彼の望む通りに演技をした。私はその行為が終わるのをただ見ていた。彼が愛しているのは抱かれているマリオネットではなく、彼の中の何か。マリオネットはただの代用品。それを理解しながらマリオネットを彼に差し出す私。「あなたはいったい何を見ているの」私は何度も彼に問う。私の言葉は彼には届かず、私の疑問はいつになっても解消されない。何人もの彼が私の上を通り過ぎた、私は彼にマリオネットを与えたことを忘れた。綺麗さっぱり忘れた。代用品としての私は、私の中から姿を消した。
切り離し、切り離し、断片を切り離し、切り離し、切り離し、切り離し、切り刻み、身を切り刻み。
幾重にもなった断片の下から世界を見る。断片に囲まれた地の底から世界を見る。断片はバリゲード、私はその下で息を潜める。息を潜めていたい気持ちと相反する、誰かに見つけて欲しいという願い。ジレンマ。焦燥。斜に構えて深いところから覚めた目で世の中を見、その実は誰よりも愛されることを強く願い、願いが受け入れられない苦しみは、死への衝動へと変化した。
始めて腕を切った日に見た、肌の下にある醜い肉の様子は、今もまだよく覚えている。この醜さこそが、私が覆い隠して見ようとしなかったものだということに気づく。取り繕う外面、どろどろしたものが渦巻いた内面。その狭間で苛々するたびに私は何度も腕を切った。肉は気味悪い光沢を持ち、繊維が刃に引っかかって苛々した。時折感じる激痛がこめかみを貫いても、構わずに切った。血は穢れだ。全て流れだし、洗い流せばいい。血管の壁に触れたとき、鈍い痛みが寒気を呼び起こした。それは多分死ぬことに対する恐怖だったのだろう。私はそんなあたりまえのことさえも忘れていた。
最初にそれを意識した日から、すでに二十年近くは経過している。しかし今だに、精神の感じる身体と、実際の身体は異なる。指先までしっかりと神経が張り巡らされていないような感覚がある。実際はそんなことなどありえないはずなのに、私の中では厳然とそうなのである。あの当時感じたひりつくような気持ちも、腕を切った痛みも、皮膚の下にある醜い肉も、大量の吐瀉物と一緒に吐き出した呪いの数々も、私の上にしっかり根を張り、事あるごとに再生され私を苛む。
しかしそれらは、もう過ぎた昔のことであり、私が今ここにいる厳然たる事実に代えられるなにものでもない。
面白い一考をどうもありがとう。足りなかったよ、「季節が希薄」ではなく「季節の変化が希薄」だった。
何故なら冷暖房機を極力使用せずに(少しでも光熱費を抑えようと)過ごしているから。外気に近いんだよ。
鉢植えも海パンもひざ掛け(毛布)も餅焼きもあるからな。」
だったよ。今日も一段と冷えるよ(泣)。
実際、うち以外の建物内に居ると快適杉で四季感薄れるけど外に出ると余りに違う温度差にうんざりも多々。
だが、それも時代であって「エコエコ」いって買い物袋持参だとか地産地消だとか大きく掲げてる割に「今日はちょっと涼し
い・暖かいかな」って日も冷暖房ガンガンだったりするから時代の推移。
なんだかなぁー。
>希薄というより変化? この部屋は晩秋の気配タップリだけど(泣)
これは面白い観点です。
単純にこの文章を見ただけだと提案の欠片も見られない単なる感想にしか見えませんが、きちんと増田の言わんとするべきことを理解してみると
「四季の変化、季節の変化というのはあくまで外界での出来事、外の出来事、日が落ちるのが遅くなり、早くなり、そのような地球の公転自転に左右される変化なんてうんざりだ!俺はレールの上を歩きたくないぜ!盗んだバイクで走り出したいぜ!」という強いメッセージが伺えます。
このことから、季節の変化を外界の変化ととらえず、人間が、日本人が体内時計を中心とした変化を基準とし、いわゆる今の言葉で言う「季節」に似たものを作成するべきだという提案が見えるわけです。
そして当増田の「この部屋は晩秋の気配タップリ」という言葉からもわかるように、当増田の季節は常に晩秋なのです。つまり春夏秋冬ではなく晩秋晩秋晩秋晩秋なのです、水着いらずです、衣替えも不要です、なんてシステマティックで現代的な生活なんでしょう。