2007-12-30

モテ非モテ論者は、「ほんとうに」人を愛したことがない

個人的にでしかないが、そういう風に思う。

結局、彼らの主眼にあるのは「愛される」ことである。「既に愛してしまっている男(女)から愛されたい」という欲望は至極真っ当なものだとは思われるが、モテ非モテ論者は、その階梯がひねくれているように思われる。

要は、まず、より多くの人から「愛されたい」。そして、そこから選別した相手を「愛したい」。そうして、選別した相手からは特にこの上なく「愛されたい」。この順番で、自身の強烈な信念を貫く。

別にそれが、良い悪いとかではない。むしろ指摘しておきたいのは、多くの人に「愛されたい」という欲望は十分に社会化された大人こそ抱くだろうし、選別した相手を「愛したい」/相手に「愛されたい」という欲望は道徳的/倫理的である。僕らは他人に愛されるように(選別/採択されるように)仕事をするし、結婚した夫婦は愛し合っている。

ただ、モテ非モテ論者たちは、選別した相手を道徳的/倫理的要請から「愛したい」のだが、それは相手を「愛している」ことを決して意味しない。彼らは、「愛する」という道徳破綻倫理破綻、そして論理破綻の体験が希薄であるから、どこまでも道徳的、倫理的、論理的に振舞い続けることが可能である。彼らの「愛したい」/「愛されたい」という欲望は、すなわち「愛さなければならない」/「愛されなければならない」という道徳的/倫理的要請から来るものである。

愛に関する、醜い、しかし誠実な文学なり映画なりに触れたところで、モテ非モテ論者たちは「あぁ、私はあの人を愛している」と思い込みたいための燃料としてそれを消費するに過ぎないのであって、愛に関連した観念的体験をするわけではない。想起する前後の文脈にもよるのだが、次の一文に何の違和感も持たない人を、僕は「愛を知らない人」と言って憚らない。

「そうして、私はやっとのことで、彼のことを愛することができるかもしれないという期待を抱くことができるようになったのだった」

実に、愛のない一文である。

ともあれ、多くの愛が残酷に終わりを告げるのと同じように、仮に愛する能力や愛される能力なるものがあるとして、それらは残酷に不平等に与えられていることは自明だろう。そのような理不尽な世界で生きなければならないことをやり過ごすために、モテるモテない、モテたい、モテたくない、といった不毛な議論に耽ることを、否定することは決してできない。

現に、僕もこうして、どこぞの誰かに「愛されたい」ために、ここで日記を書いているのだ。ここに日記を書くことが方法論として適切かは別として、僕を満たす強烈な自己愛という病が、「この僕こそが愛されなければならない」という要請をがなり立て続けている。

あぁ、僕は何故、僕を愛してしまっているのだろう。

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