はてなキーワード: 俳句とは
それがどの程度の割合の人に共有されていて妥当なものか説明して欲しかったんだけど、単にできないんでしょ。
もちろん私には全部は出来ませんよ。それは後述の通り説得力が無いことには成らないと思いますが。
それは、マナーがあなたのいう「躾」と「不躾」を判断する基準を最初から設けているからじゃないの。
いやそれは当然だって。
元々は宗教の戒律だとか葬祭(これも宗教か)とか茶道・俳句のお作法のように人間が勝手にルールを決めたところが発祥なんだから。
「音をたてない拍手で神社のお参りをするのは無作法である」というのもそう。
中学のとき夏休みの宿題に短歌があって、ちょうどそのとき自由律俳句かっこいいと思っていた私は、何をとち狂ったか八八七八五の「短歌」を出し、あろうことかそれが市のコンクールで入選に選ばれてしまったものだから、妙に粋がっていたのだが、後に思うのは、やはりあれはだめだったなと。
少し前にも「『型破り』と『形無し』」「守破離」の話が出ていたが、守を修め破を成して初めて離に至るものであり、その過程をすっ飛ばした自分の自由律もどきなど、型を成す努力を放棄した怠慢を、粋と履き違えた滑稽以外の何者でもなかったのだ。
NHKのラジオ文芸選評を聞いていても、字余り、字足らず、都々逸での三四・四三・三四・五破りなど、投稿者の「型破り」を選者が型に戻すだけで、内容は同じでありながら驚くほど趣深いものが生まれたりする。
型はただ決まりとしてそこにあるのではない。先人たちの連綿たる工夫の粋を極めた最も美しい形、それが型なのだ。
ところで冒頭の、自由律に影響され「形無し」の短歌を作っては粋がる話、これはいわゆる「中二病」の典型的な症状なのだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20070128233637
思えば俺の親父も、けっこうヘンな人である。
化学合成を主とする製品を扱う学部であるからジャンルとしては理系に分類されるはずなのだが、俺が小さい頃からすでに俳句や漢詩・囲碁をたしなみ、正月での祝詞(我が家の宗教は神道である)の際はかならず一家を列席させて神棚に手を合わせさせたりだのと、「ヘンなエンジニア」ではあった。北杜夫や遠藤周作・あるいは司馬遼太郎といった小説に親しむ一方、大学時代は山岳部に在籍し富山・長野間の山に登ったりしていた。その兼ね合いでか、俺自身も理系崩れではあるが、四字熟語や「句読点のルール」といった分野には妙に関心を抱くようになった。
(その一部が、かつて在籍し倒産したDTP会社では、多少は生かされたとは思ってはいるが)
あと読書だけど、おカネが無くても古典を読むだけなら、「青空文庫」でも幾らかは読めるからね。自分のお勧めは、宮澤賢治と中原中也。今度は、太宰治作品に挑戦してみるつもり。