はてなキーワード: デザイナーとは
http://d.hatena.ne.jp/katie_tommy/20090603#1244034180
確かにGマークに本当に「良いデザインの啓蒙」の意味があったのはせいぜい1970年代までだなあ。
つか、80年代以降は、日本の工業技術と工業デザイナーのセンスなら、「きれいな形で便利な製品」を作るのはごく簡単で、それだけじゃ意味がないものになった。
ちょっと考えてもらえばわかるけど、今店頭に並んでる日本製の工業製品で、どうしようもなく醜くて、不便極まりない製品ってあるか?ないだろ?
Gマークってのは、本来そういう時代のものなわけ。
それでもって、Gマークの基準が、90年代あたりから拡散していったわけよ。「新しい生活を創出した」とかいろいろと。それってかなり基準として微妙だよね。
結局、今の日本のGマークが「こんなのあり?」ってのがあるのは、
「良いデザインとは何か?」って価値の揺れが、審査員のデザイナーの側にあるのが主な原因であって、その他はなりゆきでしかない。
言っておくけど、Gマーク団体は儲かってなんかないよ。運営実費程度だ。まあ見ようによっては天下りどうこうとかなるんだろうけどさ。
だいたい「Gマークのついた製品は売れない」ってのがメーカーの常識で、実際売れないから。
それでも取る会社があるのは、ごくたまにGマークが有効な製品があるのと、後はたいがい、若い頃の想い出で「Gマークコンプレックス」のあるメーカーのデザイン部長の独断、だよなあ。
アノニマスデザインのことを言いたいんだろうけど、「デザイン」って言葉が広く使われすぎていることが原因では?
企業がデザインを戦略として取り込むのであれば当然そういったデザイン哲学なんか気にしていられないわけで。
そういうの好きな人間にとっちゃ広告デザインとかウェブデザインとか浅はかで安易にデザインデザイン言うなボケと思っちゃうだろうけど、
結果としてその広告なりパケなりが要因で商品がヒットすれば、企業とデザイナーにとっては「良いデザイン」なんだから。
ここで言った良いデザインは、本質的な意味での良いデザインでは無いけども、経営戦略にデザインを取り込むってそれか或いはスタッフの士気あげる道具にする以外ないでしょーよ。
そんな社会派ぶるなって。
友人に「デザイナーかっこいい!」なんて言われるけど、デザイナーなんて底辺だ。
いや、正確に言うと、広告制作の下請けのデザイナーこそ底辺。僕は完全にソレだ。
弊社には営業がいない。基本的には代理店からの仕事をたんたんとこなすという感じ。
媒体は様々だが基本は紙。時代はwebだよ!なんて一昔前に言ってたバカもいたけど、webの単価も安いよね。
うちも安いよ、さらにバカだもん。
この仕事をやっていて、残業代なんて言葉聞きもしないし、何分広告を中心としているので、すごく景気に左右される。
新聞の記事下やチラシの枚数とか見てわかると思うけど、激減だよ。
そこで、広告費削って出す時どこのお金が削られるか。デザイン費なんて入ってるようで入ってなくなるんですね。紙の値段もあがっているし。
そのくせ、明日校正出しだから今日中に頼むだ、今夜中に頼むだ、無理難題の納期だらけ。賃金なんてそのへんのバイトより安いよw
なんでこんな仕事してるの?ってきかれたら、なんて答えればいいか悩んでしまう。辞めたい気持ちももちろんある。
一番印象深いのは、職場見学に来た厨房だ。わかったかい?きみが目指すデザイナーなんてこんなもんだよ?って教えてしまった気がする。
夢の破壊者だ。まあ、将来的にはよかったのかもしれないけど。
先日の読売新聞夕刊にユニクロや楽天のロゴをデザインした人のインタビューが載ってた。
この2つのロゴはあまり良いデザインとは思ってなかったので、メディアで持ち上げられてると知ってびっくり。
気になってネットで検索してみると、ツタヤのデザインもこの人らしい。うーん。
創価学会の関係者だから仕事が来るみたいなことを書いてる人もいて、またネットにありがちな陰謀論かと思ったら、
この人の出世作であるsmapのCDジャケット、思いっきり例の三色旗の三色じゃん・・・。
また、創価つながりである書道家とよくつるんで対談してたりするらしい。
この書道家の作品、めちゃくちゃ邪念を感じるしろもので気分悪くなった。
さらに公明党議員の華道の家元と3人でテレビで対談している動画もあった。
つまりは政権与党になって権力を握った公明党がデザイナーに仕事を回して
はぁ・・・
タイトルのダサさなんてどーでもいいけど、新しいモンスターのデザインもう出てる?
四駆ってまさかロトムじゃないよね?あれはフォルムの一種だから…まあ、無機物担当メタモンと思えば…
ディアルガ、パルキア、ダークライ、ギラティナ、シェイミともうNEWポケモンが全然魅力なくて困ってる。
あまりデザイナーに詳しくないけど、なんであんな似たり寄ったりつづけるんだ。
ポケモンで東映怪獣物したいのはいいけど、何作も引きずるネタじゃないよね。
ポケモン映画って、人間と生き物との関係や共存って意味で説教臭いのが好きだったけど、
ルカリオが最後だっただなぁとしみじみ思った。
賢いって何か分かってない人が多いと思う(自分を含め)
というか、賢さなんて人それぞれ定義が違うから。
だから、「分かってない人が多い」んじゃなくて、「みんな分かってるけどそれぞれ抱いているイメージが違う」の。
別にある程度の意味内容を表すことが出来れば言葉なんて通じるから、
例えば、「かっこいい」とかもそうだよね。
勉強出来る人がかっこいいのか、運動出来る人がかっこいいのか。
経営者がかっこいいのか、平社員でも自分の仕事をしっかり出来る人がかっこいいのか。
海外で活躍する有名なデザイナーがかっこいいのか、日本の伝統を守る職人がかっこいいのか。
他には「素敵」とか「粋」とか「正義」とかもそうだ。
人それぞれ持つ具体的イメージは違うけれど、なんとなく通じる。
で、こういうものは大体消去法的にお互い理解することが可能で、
「賢い」とか「かっこいい」っていうのは持っているイメージが違っても、
「賢くない」とか「かっこよくない」ってのは結構みんな似通ってくる。
そこで言葉として通じるんだろうね。
http://getnews.jp/archives/11408
当然だと思うが、それに対するネット住人の反論が凄い。
心が狭い、だとか、原理主義だとか、頭が固いとか。
自身が作ったキャラが、不当にゆがめられた形で広がっていくのは気分の良いものじゃない。
ましてや、そのキャラクターがイメージ性を強くもっているものであれば。
私的利用のためや、引用、学校教育における複製など、権利者の許可をとらずして、複製をみとめるケースもあるけども、ネットの場合は、公衆送信権も侵害するので、注意が必要。そこまで目くじら立てないとしても、イメージを汚すおそれのある改変までは認められない、というのは、制作側からすれば当然の主張だろうに。
もし、貴殿がプロのデザイナーになったとして、ギャラを受け取って何かのイメージキャラを作ったとして、
そのキャラは、そのメーカーなり、商品なりのイメージを表現するためにクライアントと何度も折衝してようやく作ったキャラが
そのイメージを歪めた形で、ネット上でコケにされてあちこちに広まってたとしたら・・・
それでも、広めてくれたことに感謝できるだろうか?
イメージを完全に歪曲されて、その作品を汚されたことについて何とも思わないだろうか。
杓子定規に、あれもダメ、これもダメ、というのは気持悪いが、あまりにも歪んだ複製が後をたたないようだったら、厳しい規制が行われるようになってしまうと思う。厳しい規制が始まってから文句を言うのは遅い。二次製作者に、倫理観をもってもらうのは難しい話なのかもしれないが、もう少し想像力を別の方向にも向けてほしいものだと思う。
今のところ2対1でこっちが多い。
奇抜なものが求められる場面はどれほどある?
家の中を見渡してみて、デザイナーの地道な作業の成果でないものがどれほどあるのか?
工業デザインほどの制約のない世界のデザイナーでさえ、多くの制約がある。
ガンダムのメカデザイナーが受けている制約など涙ぐましいものがある。
ほとんど創造性の入る余地がないくらいに過去の遺産でがんじがらめだ。
デザイナーが単純な作業を行わなくてはならないのは、世界が保守的だからだ。
すでにわかっていることを何度も繰り返さなくてはならない。
オレたちは目にみえて、すでに知っているものに安心する。
保守的なんだ。
世界はとてもとても保守的だ、というのがオレの結論なんだ。
http://anond.hatelabo.jp/20090427225248
ちょっと関係ないけど貼らせてくれ。
本当に単純な作業みたいなものがほとんどなんだって。
創造的な作業なんてその中でもごく一部なんだ。
職業や給料だけでモテ度が決まっても、それはそれで「なんだかな…」じゃねぇの
職業や給料以外の魅力も評価される、ってのはいい集まりとも言える、かも。
あと田舎で「フリーのデザイナーでござい」なんつったら、「なにその胡散くさい職業」と内心思われて「ふーん」て返されるんじゃね
中学のときは地味なグループに属していて、「どうでもいい」的なポジションでした。
会場では友達もそれなりにいたし、それなりに楽しめました。
同窓会だから、当時の思い出に浸るのは当たり前です。
かわいい子は、順調にきれいになっている。
やっぱりという感じで、「人気のあった人=当時の人気者」でした。
ただ、田舎のなので、特別すごい職業についている人たちは稀で、
そんな人たちは、都合がつかなくて参加しなかった。
地味だった人が、お店を構えて派手になっていたり、
僕もフリーのデザイナーなので当時から見れば意外と思われている。
例えば、イケメンの4倍稼いでいるフツメンは注目されていなかった。
僕も同級生平均の2倍ぐらいは稼いでいたけど「ふ~ん」という感じでした。
中学のときに作られたイメージは、10年以上たっても引きずられている。
田舎だからなのか、世間でもそうなのかは不明だけど、
なんだかな・・・、という感じです。
下手をすりゃ中古車が買えちまうじゃん。
所詮は布切れだろ?貴金属でも織り込んでわけでもなく。
っていうか貴金属でもあんなに高い理由がわからん。
宝石屋に入ると20万以上の指輪がゴロゴロしてて、エンゲージリングとかだと40万とか60万とかもう見る気も失せる額だけれども、指輪って生きるうえでまったく意味ないもんじゃん。
服ならまあ防寒くらいの意味はあるけどさ、指輪ってなに?喧嘩するときに便利とか?
イタリアの職人が手編みした高級靴下5000円とかならまあわからないでもないけど、指輪とかネックレスってなぁ。
まあその高い服の話に戻って、そのコートの横に5万のジャケットや4万のニットが並ぶとえらくお買い得に思えてしまう。
それもあるけど、田舎だからこそってのは考えさせられるね。
百貨店の売り上げにおいて、ある程度以上の高級嗜好品に関しては、売り上げのほとんどが一部の常連客によるものであるらしい。
立地がいいから入る、偶然に目に留まったから買うというわけじゃなく、客は明確な目的を持って店にわざわざ足を運ぶ。
そして、そういう物欲の権化のような人間は日本中どこにでも飛ぶ。
茶碗や茶釜、茶入れ一つで戦争したり和睦したりしてた時代だってあるのだ。
流石に布切れにうん十万をポンと出す人間は少数派だから、みな冷静なつもりで馬鹿にするけれども、チューリップバブルや香辛料バブル、中国美術品バブル、世界の歴史を紐解くとみんなバブルに踊るのだ。
日本銀行券だって、言ってしまえばただの紙だ。
価値なんてものは相対的なもので、ゴミにすごい価値がでたりすることも珍しくはない。
バブル論はさておき、立地がいいからという理由ではなくて、物がいいから、サービスがいいから、そういう理由で遠方から足を運んでもらう店を構えてみたいと思うことがある。
それはたぶんどんな業種でも言えることなんだと思う。
場所がいいから売れるっていう商品、サービスはあんまり好きじゃないんだよな。
ちなみに、その30万のコートと27万のジャケットはキャロルクリスチャンポエルというデザイナーのもの。
代理店を通さず直接本人と話をつけて買ってるそうで。
「ユーロが安くなったおかげで来期からはかなりお安くなりますよ!」
ってさ。
俺は家族と一緒に暮らし、デザイナーとして企業で働く平凡なサラリーマンだよ。
収入で語るならね。
心は未だに芸術家のままだよ。
自分が感じる美しいものを、自分なりの方法で表現したいと思い試し続けている。
人生をやり直したいとは思わないし、何も書き直してないし、横増田になる必要もないよ?
物事を斜めに見て逃げるのはやめたほうがいいと思うよ。
元増田が言いたい事もとてもよく解る。
だけど、そこで諦めさせた子が
「諦めた事を一生引きずるかもしれない」
って事も忘れないで欲しいと思った。
自分は「絶対にアーティストになりたい!」という情熱を持ってたわけじゃないし、
誰かに何か言われて諦めたというわけでもないから、ちょっと話がズレるかもしれないけど、
「現実的な目線で物事を見た結果、アーティストとしての道を選ばなかった」
という意味で近いかな、と思ったので書く。
小学校の頃から絵を描くのが大好きで、高校は美術系のクラスだった。
まぁそんな高校だから、クラスの殆どが美大や芸大を目指してた。
だけど自分はちょっと冷めたガキで、
(この中からガチでアーティストになれるのなんて、ごく一部だ。)
(ひょっとしたら、ゼロかもしれない。)
と感じていたし、才能がある=大成する、という世界じゃないのも薄々気付いていたから、
結果として俺は高卒で就職して、今は割と何処にでもいる「デザイナー」をしている。
もちろん、高校で培った下地があるからこそ今の職に就けたと思うけど、
あくまでも「デザイナー」であって、「アーティスト」ではない。
もしあの時、本気で「アーティストになろう」って美大や芸大に進学していたら、
何か違ったのかな?という気持ちが、常にもやもやと渦巻いている。
今の仕事は楽しいし、自分の技術とかセンスを生かせる仕事をしている、
という満足感を得ているにも関わらず、だ。
これは、自分自身が納得出来るほど玉砕していないから引きずっているんだと思う。
自分の場合は、誰かに言われて道を諦めたわけじゃないけど、
もしこれが「誰かに言われて諦めた」のだったら、もっと強く引きずると思う。
ドロドロを吹き込むのもアリだけど、
どちらの道についても、選んだ時のリスクも可能性も、
成功した時の素晴らしさも、失敗した時の苦しさも、全てを教えてあげて、
その上で「修羅の道を歩むなら、覚悟もしろよ」って突き放した方がいいと思う。
教師は、背中を押す事も、腕を引っ張る事もしちゃダメなんじゃないかな。
冷たい言い方すると、その子が将来後悔したとしても、責任を持てるわけじゃないだろうし。
「助言はする。それを踏まえた上で、判断するのはお前自身だ」
というスタンスで居て欲しいな、と思う。
うん、基本的にはその通り。
学校の先生になんか言われてぐらつくぐらいなら芸術なんて行かないほうがいいね。
いいとこ美大に行ってデザイン勉強してデザイナーとしてがんばれる可能性を教えてあげる、とかかな。
こっちはがんばり如何で就職口はあるよ。
繰り返しになるけど、俺が気持ち悪がってるのは、
『飯が食えないことに怯えて自分の魂を捨てた抜け殻』が『なりたくも無い教師になって』
挙句に『たいした才能も無いと単なる自分の少ない経験地から得た視点で判定』し
『上から目線で生徒を見下して芸術家なんて苦労するだけで金にならんし食えねえから』やめとけってことを
どうやって忠告したらいいか『悩んで酒にも酔えない』という
『本当に子供のことを考えてやっている俺』を演じている欺瞞に気がつかない人なんだな、ってこと。
なんか気持ち悪いじゃなくて良く理解できない、不思議な気分になってきたな。
書いてあることを読む限りでは『薄っぺらい人生を生きているな』と思ってしまうよ。
うん、あなたの主張することはそのまんま理解しているよ。
芸術家として生きることは宝くじを買うのと同じぐらいリスクの高い人生の選択。
それはプロスポーツや小説家とかよりも厳しいかもしれないね。エンターテイメントですらないからね、特に日本では。
俺の主張は学校の教師風情に人生のリスク管理何ぞして欲しくないってことになるのかな?
人生のリスク管理はまず親のしつけ、教育観、人生観、そっちであって欲しいね。
ちなみに俺自身は美大卒、家族持ちのインハウスデザイナーで、芸術家ではないけれど自分のやりたいことは捨てていないよ。
なので、リスクを回避しつつ如何に芸術家としての魂を捨てずに生き続けるのかを選択しているつもり。
でも、個人の生き方を論じるつもりはないよ。
人それぞれいろんなところにぶつかっていろんな選択をして生きていくわけで、
どうやって自分の矜持を保つかってのはつくづく難しいよね。
ここまでデザイナーのことを理解してない奴がいるとは驚きだけど、一般的にはこんなもんなのかなあ。
増田にはデザイナーはいないのかな。誰か反論してくれないかな。
もはや反論する元気はないので、言い逃げですまない。おやすみ。
言っていることは一理ある。
デザイナーになれるかどうかの境目は
1、単調かつ機械的作業にどこまで耐えられるか
2、自分の主張を殺して、客の要望にあった作品を作ることができるか
ほぼこの2点につきるんじゃないかと思う。
それ以外の点は普通に写実的な絵が描けるセンスがあれば努力でカバーできるからだ。
まあ足切りはあってもいいと思う。
まったく絵心がなかったら、デザイン関係の作業はすべてが苦痛になるからだ。
そんなものが続けられるはずがない。
http://anond.hatelabo.jp/20090408121545
全然、分野外で情報科学の大学院卒なんだが・・・いや、そりゃ、ピカソになれるかどうかは、高校の授業でちょっと見ただけで分かるかもしれないが、世の中、ピカソしか求めていないわけじゃないでしょ?大学院卒でも、大半の人材が研究者にならずに、普通にエンジニアとして暮らしているように、美大卒の人も、多くはデザイナーになったり、美術教師になったりして暮らしていくんじゃないの?しかも、一言で「デザイナー」ってったって、色々な種類のデザイナーがいるよね。絵心一つにしても、Webページのデザインを考えるのと、Tシャツの柄を考えるのとでは、ずいぶん必要な技術が違ってくるように思うんだが。ほとんどの技術職はよっぽどのことがない限り、特に才能がなくても訓練すれば見につけて、そこそこ食えるように世の中は出来ている、と思うんだけど、そんなことないの?
まとめるとさ、いいたいのは、「ピカソになれるかどうかは、元増田の言うとおり、授業で見ただけで分かる。が、ピカソレベルに達しなくても、絵の技術を使って食っていける職場はたくさんあると思う」んだ。もし、絵の道をあきらめさせた奴が、美大卒後、「絵はあきらめたけど、漫画家になる」とか「絵はあきらめたけど、フィギュアで食ってきます」とか、「絵はあきらめたけど、フォトレタッチで食ってきます」とかいって、その道で成功したら、どうするの?あきらめさせた責任とれんの?
後、この元増田に「お前は教師に向いていない」といっている奴も見かけるが、それって、元増田の「才能がないからやめろ論」を肯定していることにならない?
どこが違うの?元増田は、考え方が極端なだけで、教師に向いている/向いていないの話じゃないと思うよ。