近年多様性の重要性を説く人々が少なからずいる。その中には所謂マイノリティや女性に配慮することを求める者も少なくない。配慮の方法についても様々なものがあるが、女性比率を○○%にするといった形を採ることがある。
所謂多様性の重要性を説く方々は、多様性自体が良い結果をもたらすかのように考えているようだか、そんなに単純な話なのだろうか。
もし多様性が全ての問題を解決するような因子であるならば、誰もが取り入れるに違いない。
だが、そうはなっていない。
本来はどの様な場合でも、ある行為を行う上で最も適した人間が配置されるべきであり、その過程においてより健全な競争というものが求められるべきだと考える。
その結果、属性の偏りがあろうと何の問題もない。それが老いた男性でも、若い女性でも、マイノリティであってもだ。
その様な実力主義という文脈の上では、属性を理由に排除することはないだろう。排除するべき理由としては能力がないからだ。
見せかけだけの多様性に配慮し、実力がない人間を分不相応な地位に就かせることの方が問題であると思う。
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この場において健全な競争環境と何かについては述べてはいない。それはより実力主義に重点をおいたためである。また能力主義との違いは何かと問われると、明確な違いを指し示すのは難しい。
個人的には、現在の“教育による格差の再生産”を和らげ、階級上昇の機会に富んだ社会を健全な競争環境と考えている。
その目的を達成するための手段としては、公教育のさらなる拡充と科挙的な試験の実施等が考えられ、それらがより(現在との比較的として)公正で公平な競争環境を創るのではないだろうか。
そんなアンタはなんでこんな増田で吠えとんのや?
実力のある者をドシドシ天皇にすべきだ
国盗り物語時代かよ