確かに、あの用例は3つとも明らかに非ネイティブの考える誤用例である。完全に同意。
「知らんけど」は軽い付加の場合もあれば増田の言う照れもあるし追究が面倒な時に使うという書き込みにも同意。その全てが同じというわけでなく、少しずつニュアンスが違う。ただ、このあたりを説明しようとすると、そもそも大阪を中心とする文化圏におけるハイコンテクストな「会話」というものの社会的意義についての理解が必須になるので、そこまで説明するのは申し訳ないが少し面倒臭い。なので喩えを使おう。
たとえばゴルフ。あるホールでどの位置にボールを落とすか、普通にラウンドしているときには、純粋にホールと自分との関係だけが問題になる。ローコンテクストな会話も同様で、「自分の言いたいこと」と自分の言語能力との問題で発話(一打)が決まる。しかし、マッチプレイになると全く話が変わってくる。常時変化する相手の状況や心情といった変数を踏まえて、その相手のとの関係の中で自分をどの位置に置くかを常に考えながらプレイしなくてはならない。表面上は同じゴルフ(会話)というゲームをしているようにしか見えないかもしれないが、普通のラウンドとマッチプレイでは、目的も思考も結果としての行動も全然違ってくるのだ。だから、普通のラウンドの感覚でしかゴルフ(会話)をとらえていない人間に、マッチプレイ(ハイコンテクストな会話)でなぜその一打をそこに落としたか(なぜその言葉を挟むか)を説明するのは無理なのだ。「知らんけど」はそういう相手との関係性、距離を調整するための言葉であり、ハイコンテクストな会話(マッチプレイ)文化の中でしか用いられない。そのことを踏まえていない「知らんけど」論には、残念ながら価値がないのだ。