あいかわらず結婚したいかといえばそんなことはないんだけど、最近見えてきたことがある。
人に優しくされた分だけ、その人を安心させてやりたくなるということ。
その安心の証明や着地点として結婚があるんだろう。優しくしてくれた人たちに向けて、結婚(婚姻)を宣言するのは、「僕は、私は、この人と人生を共にするから大丈夫ですよ。」と伝えることと同義だ。
私に優しくしてくれる人は会社の上司やパートさんたちだ。特に上司は私を本当の娘みたいに扱ってくれる。心配してくれる。
私が結婚していれば、私が風邪を引いたとき、上司はわざわざ私が起きているか確認した上で玄関にお見舞い一式を置いていく必要がない。
上司が会社からいなくなる時や私の人生から見えなくなってしまう時でも、私が結婚していれば「自分がいなくなってもこいつは幸せなのだ」「寂しがっても支えてくれる人がいるのだ」と安心できるんだろう。
例えば伸び代と安定性のある会社の役員や顧問になるとか、石油王になったとか、超安定した家賃収入があるとか、そういう絶対的な資産も確かに拠り所にはなる。
なるけれど、結局は人の繋がりというか、感情的な守りにはならない。急な事態の助けにはならない。だからみんな、私に結婚しろと思うのだ。私が独りで困ったり寂しくならないように。
それをそうとわかってしまった。みんな私に優しくしてくれるから。私を心配してくれるから。無意識で享受していたありがたみが、いまなぜか爆発しちゃった。
なんていい人たちなんだろう。こんなにも感情的な教えなんてどこにもなかった。
転職が成功しなかったら、実家に居つづけたら、きっとずっとわからなかった。
こんなに優しく支えてもらってきたのに、気づくのに四年もかかった。ほぼまるまる四年の時間がかかった。
申し訳ないと思う。ありがとうと感謝するべきなのに、じゃあ結婚しろ相手を探せと願われてもそれはもう嫌なのだ。
私は私を慰めて生きて行くしかないと知っているから。そうじゃないと子どもの私が浮かばれない。
喧嘩ばかりしていた両親に心配してほしかった時の私が早くしにたいと泣いてる気がする。
本当に気づくのが遅すぎたなぁ。もう今さら感謝することも動いてみることも怖くて恥ずかしくて出来ないから、私は気づかない振りをして明日も出勤するだろう。