私は恥ずかしいことが多すぎる。何かを判断するとき、あとで思い出して恥ずかしくなるような方を選んでしまうから。
人は気持ちいい方を選ぶことが多いのだろう。気持ちいい理由の中に、あとで思い出しても恥ずかしくないからという理由があるから、それを選ぶのだろう。私はそれをとっさに判断できない。もしくは、選ぶ理由の中にそれがない。
お風呂場や布団の中で何度もだえたことか。何度「死にたい」と検索したことか。はたから見れば大したことないこともない。そんなことが多すぎる。
恥ずかしいことが多すぎることを恥ずかしがって生きていくのはなかなかつらい。もだえても、Googleに死に方を聞いても、どうしようもない。だって、解決しないし生きたいから。
そこで、恥ずかしいことをあえて晒すことで浄化する方法を編み出した。恥ずかしかったことを面白おかしく書けば、寿命を全うできるのだ。
「時間が解決する」というやつを使えば、いくらか捨てられる恥ずかしいこともある。さすがに、直近の恥ずかしいことは恥ずかしいまま数年持ち続けることになるし、そう書いている今も直近の恥ずかしいことを思い出して自分の頭を殴っている。でも、時々捨てていればタンコブができるまで殴る必要はなくなる。
ただし、言い訳はだめだ。それと、美化しちゃいけない。あの時の恥ずかしかった出来事を、恥ずかしいままに晒す必要がある。もう一度、直視しなければならない。
晒すというのは、その場にいなかった、その出来事を知らずに済む周りの人に見せるということである。意味がわからないだろう。でも、それが良い。
実は、人は他人の恥ずかしい出来事が大好物だ。共感したり、あざ笑ったり、哀れんだりと、好き勝手に消費する。そして、忘れていく。
一生懸命、勇気を出して、一世一代の決意で晒したのに、このザマだ。腹が立つ。でも、それがミソなのだ。私にとって、永遠に苛まれるはずの恥ずかしい出来事は、人にとって、いつかは忘れる通りすがりの出来事で、人にとって忘れられない出来事ならば、私にとって価値がある出来事だったということになる。
価値は「悲しみ」「怒り」のいずれか、もしくは両方だろう。私と同じような体験をした人は胸を締め付けられ、もう一度悲しみ、怒るのだ。
おっと、もう一つを忘れていた。私と同じような経験をし、乗り越えた私より立派な人は、懐かしみ、微笑む。そう、「郷愁」だ。
これは「悲しみ」「怒り」より私を救うだろう。恥ずかしい出来事なのに、好きだと感じてくれる人がいる。「郷愁」は全てを救う。
残念ながら、それ以外は忘れられていく。下手したら「悲しみ」「怒り」「郷愁」を含んだそれらも、いつか忘れられてしまう。
どちらも嫌なら、恥ずかしいと思ったときに「あの時、恥ずかしかった」「間違っていた」と伝えよう。それは言い訳にならない、素直になる。それもできないなら、いつまでも持ち続けよう。
大丈夫、人は鈍感だ。私が気にしすぎるだけで、人は私をそこまで高く評価していない。それも嫌なの? それなら間違えないで、期待に応えて。
厳しいけど、優しいよ。明日もまた、何か恥ずかしいことをしてしまうかもしれないけど、救われるよ。絶対じゃないけど、本当だよ。