かつて人間関係は資本主義とは別の場所にあった。しかし今は人間をレンタルできるようになった。ユーチューブを見ていたらその人を友達に感じる。そのユーチューバーは現実の友人より人格者でより良い友人であってくれる。しかしそおユーチューバーから見た自分は視聴数1のコマに過ぎない。
アイドルも恋愛感情を代替してくれる。あらゆるサブカルも現実のなんにもない日常よりも面白い物語でそちらに傾倒したほうがいくぶん教訓的である。なにもしない人もレンタルできる。
しかしそうして消費者の一部でいると永久に1読者、視聴者、購入者でしかない。
SNSはそうして人間関係を数値化して資本主義的なルールに基づいた便利な人間関係を供給している。ツイッターのタイムラインは人間関係において理想郷であり同時に地獄である。
なんの価値もない自分は誰からも求められず決して誰とも関係しないが孤独に誰かが公開している関係性を間借りしてそれを享受することができる。誰にも求められないような人間が社会に出て出会う人間よりも一方的でありながら最適化されたSNSは完璧で自らを慰めてくれる。
以前は人間関係は原理的に閉じていてどんな人にもその人個別の物語があったが今は何々が好きか何々をしているなど人間は属性とクラスタで認識されがちである。
享楽を得る手段としてSNSほど便利なものはない。しかし一視聴者で消費者でしかない交換可能な人間に生きている意味などあるのだろうか。