2019-09-08

彼女自分色に

染めたいかという話。

先日、友人と飲んでいた時に話題に挙がり、うまく説明できなかったのでまとめてみる。

その場はぼくを含め3人で、男性の友人M、女性の友人F。趣味を人と共有することについて、ひいては彼女自分趣味に関わる場合話題になり、3人の意見は次のとおりだった。

M「彼女趣味が共有できたら楽しい自分が興味なかったことでも、彼女きっかけに知れる。」

ぼく「彼女自分趣味に合わせるのは、なんか嫌だ。」

F「ぼくの言うこともわかる。」

当然、ぼくも彼女趣味を共有できたら楽しい。彼の意見が正しい。ならば、ぼくの意見はどのような論旨だったのだろうか。

前提として、ぼくはそれなりに駄目な人間であり、これまでに趣味を人と共有した経験が少ない。「趣味とはひとりでこっそりこつこつやるもの」であり、好きであることを大っぴらにするものではない、というイメージがある。例えばアニメ深夜アニメにハマりだしたのは小4あたりで、当時いわゆる「オタク」は今のような社会権はなく、ぼくは家族にも隠れて膨大な量のビデオテープと過ごしてきた。中学の頃に「おとぼく」の録画が姉にバレた時は脂汗をかいた。これがぼく自身の原因の1つ。

次に好みの問題。ぼくが自立していない分、ぼくは自立した女性が好きだ。相手から一方的に寄り掛かられると倒れてしまう。なので、普段はわかりやすく「歳上が好き」と言っている。彼女に頼られるというのは大変嬉しいが、依存されるとなれば話は違う。パートナーとして精神の拠り所になるのは理想的だけど、人生意味に(必要以上に大きな割合で)組み込まれるのは辟易する。そんな感覚。そんなに変なことは言っていないと思う。

その上で「彼女自分趣味に関わる」ことについて。

彼女が「自分意思で、その趣味のものに興味を持ち、楽しんでくれる」場合。これは大いにハッピーだ。彼女人生も豊かになるし、ぼくも趣味仲間が増える。

彼女が「大好きなぼく君のために、趣味に合わせる」場合。これが駄目なのだ。気を遣われている。彼女がその趣味を楽しむためには、ぼくが必要になる。ぼくがひとりでその趣味を楽しんでいたら、誘わなかったことに怒られるようなイメージ

また「大好きな彼女ちゃんが、ぼくなんかに合わせる」ことにも、ちょっとだけ、違和感を感じるかもしれない。ぼくたち自己肯定感低い族からすると、惚れた人が墜ちてくるように感じるかもしれない。Fも自己肯定感低い族なので、「わかる」の発言はここから来ていると思う。

結局は「趣味は好きにやりたいので、そんなに気を遣わないで欲しい」と言えばよかった話だったのかもしれない。Mの主旨と相反することでもなかった。

ちなみにMには彼女がおり、ぼくにはいない。

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