死についてずっと考えてきたんだが最近どうでもよくなってきた。
さすがに31歳になるまで毎日怯え続けて来たら段々と恐怖にも飽きてきた。
体は全くの健康体。
だのに肉親や身内の死、ペットの死ですら恐ろしい。
やる気になろうとすると「どうせ死ぬ」という考えが邪魔をする。
しかし仕事以外の日常生活では何かをする理由が「どうせ死ぬ」にかき消される。
力強く心の壁に書いた志も、どうせ死ぬ消しゴムに簡単に消されるような、そんな毎日を送ってきた。
この悩みが達が悪かったのは誰にも解決策がないってことだ。
生きる意味、生命の尊さ、産まれてきた喜び、社会貢献、ポジティブシンキング。
結局のところ、それは「死という現実」から目を逸らすための妄想、
言っている本人は自分の嘘を信じ切っているため、その手の人間に打ち明けたとしても解決はしない。
もし自分が心から尊敬する人間がこの世にあらわれるというのなら
自分を死から救ってくれる、開放してくれるような人間であるだろう。
しかし年も明ける頃になって
段々と自分が死の恐怖を忘れだし、死の恐怖に対する興味というものが徐々に減りつつあることを実感している。
それは自分という生命体、可能性、ポテンシャルに対する期待の低下と伴っているようだ。
つまり自分にはもう生きている価値もない、命を賭ける価値さえない、死んだところで何が変わるのか。
そういった考え方になっていく。
死の恐怖は依然として残っているものの、死から守り通すだけの価値がはたして今の自分にはあるのだろうか。
もはや成長は望めず、市場的価値は低く、交友関係は少なく、愛している人もいない。
そういった自分は果たして死から守るだけの価値があるのだろうか。
自分の価値など誰が付けるのだろうか。それは正しいのだろうか。
今は心の壁に書いた志の消し残しがゴミのようにへばりついている。
それはこすっても消えそうにない。まるで肌のシミのようだ。
もう人生に挽回などないおっさんになって死の恐怖から徐々に開放されつつあるものの、
依然として死という現実は何も変化は遂げていない。
今度は呼べない死の恐怖を忘れてしまうことへのボンヤリとした不安があり、
しかしこれも年月と共に薄く消えていってしまうのではないだろうか。
いつか訪れる決して避けられない死という現実を受け止めるための正しい姿勢とは、
やはりその事実から目を逸らさずに真正面から認識と自覚をもって受け止めるべきものではないのだろうか。
タナトフォビアっていうらしいよ お仲間探すかもっとましなことに時間使えば、せっかく生きてるんだし
キャビアみたいな名前だな