2018-10-28

インターネットにおける禁欲主義

私達の欲望が引き起こす問題について禁欲的であれば解決できるとする思想の持ち主たち。

それは掲示板などの荒らし行為や、ランキング不正操作、怒れるユーザーによる誹謗中傷

私達が持っている欲望言語化し、戒める立場だ。

自己顕示欲承認欲求、性欲や本能的な部分などその問題となっていることがどのような欲望において実施されているのか。

かに禁欲的であれば、それらは解決する。

どんなに気が狂っていても、むしろ気が狂っていれば理性的ではないため欲望で動いていることが分かってしまう。

ウイルスなどをばらまく人間快楽主義者だろうし、荒らしをする人間快楽主義者だ。

ホッテントリに入るなどをしたい人間はてブ操作することが合理的であったりするだろう。

そんな人間自己顕示欲にまみれているし、欲望を捨てるようにすすめるのだ。

  

禁欲であることはほとんどの場合うまくいく。

しかし、禁欲主義者もある問いに答えなければならない。

私達はなぜ禁欲をするのか?

大抵の場合はうまく答えられないと思っている。

欲望がある程度普遍性を持っていたとしても、環境時代が違えば変わってくるからだ。

過去に行われた人間が欲にまみれていたからだ、などと答えれば

なぜいっときの欲に溺れた人間に合わせなければならないのか?などと質問が止まらなくなるし、明確なことは言えなくなるだろう。

私は禁欲であることよりもシステム的に考えたい。

ランキング不正操作するのが問題なのであれば、そのシステムが端的に言って悪い。

システム不正を試みる人間がいれば必ずいたちごっこになるだろう。

しかし、それで禁欲であることが答えになるわけではない。

もちろん多層的に考えるのであれば、ユーザー層は禁欲であることが答えになるだろうが

多層的であることがシステムなしで成り立つなどありえない。

キズナアイ騒動に対しても考える。

千田有紀はかなりシステム的な考えをしていたが、インターネット禁欲主義者が捉え直せば

少女に興奮する男の欲望おかしいという話になる。

電車痴漢問題インターネット禁欲主義者によれば、男の性欲の話になるが

満員電車になってしまシステムが悪いし、そういう風に捉えれば女性専用電車鉄道会社実施しなければならない当然のこととなるだろう。

インターネット禁欲主義者が完全に退場したとしても、課題は残っている。

システムとは性悪説で考えるべきか、性善説で考えるべきかという問題だ。

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