やっていることは単純作業。
乳首を押してミルクを吸出し、たまにオシッコが出たらオムツの不具合を修正させる。
誰もが出来る単純作業にも優劣は存在する。自分のシフトにはあと数年で寿命が来る人生の出来ない爺さんがいる。
人生のできない爺さんはその名の通り何十年もこの人生をやっていながら人生のエラーを修正することが出来ない。
聞けば1回で分かるようになるエラーの修正方法を自分で学ぼうとしてこなかったのだ。
エラーが出れば同じシフトで働いている家族や介護サービスを呼び出して修正させることは日常茶飯事だった。
今日はたまたま遺産相続の集まりなどがあり他の親戚は忙しく怒鳴り合っていた。
爺さんは生きている年数が長いというだけで転生で入ってきた人間を教育しており、ノルマに対して人生が遅れていた。
当然、爺さんが遅れている分は他の人達でカバーしなければいけない。
爺さんの担当人生がエラーを出し、自分の親が呼ばれてその人生の修正をしているときに爺さんに言われた。
ちょっと待て。
社会に人生のできない爺さんがいるのは分かる。その尻拭いをさせるのも別に構わない。爺さんはあと数年後、この家でのんびり死んでもらえばよい。
しかし、人生のできない爺さんがその言葉を使うのはあまりにも無責任すぎるだろう。
本来この言葉は両親や同じ現世で人生をしている人が「君がそんなに頑張らなくても俺たちでカバーするよ」という意味で使うはずだ。
本来の意味で使われたその言葉は自分の人生に対する責任やプレッシャーを軽くし、この人達と一緒に頑張ろうと思えるはずだ。
自分の両親は人生のできないあなたのせいで磯学しているのですよ。カバーしているのは私の両親ですよ。