なのではないか仮説
二次元美少女とは純粋な芸術であり、彼女達のような存在と青春を過ごしたいと願うこと、そして最高の仲間と青春を過ごすなかで人として成長することこそ人間の本質である。
18歳以上を登場人物としながら高校生の恋愛を描くという矛盾は、純粋に芸術を描くためなら他の事は放っておけという純文学精神の現れだ。
CROSS†CHANNELはその中でも最高に純文学だ。
思春期の揺れ動く少年少女の心を描くと共に、現代人が抱える社会適応の難しさとそこから来る複雑怪奇な心の有り様を描いている。
社会に適応できない事に悩み、社会を避けようとし、だけども社会と共に歩もうとする二律背反が織りなす、掴みどころのない心の機微こそ現代人の精神活動においてとりわけ芸術性を宿す部分だと私は考える。
そして、その悩みの果にある答をCROSS†CHANNELは描く。
人間を必要としながらも、人間と関わらない生き方を求める姿は、インターネット社会の果てにある一つの答えのように私は思う。
ラストで絵が書き出される、主人公なりの、作者なりの答、それに対する各登場人物なりの色とりどりの反応。
そして、受け手もまた1人1人がそれをハッピーエンドと捉えるか、バッドエンドと捉えるかを迫られる。
答を用意しながら、その答に対する答を読者に投げる事で、この作品は読み手がこの作品に心揺さぶられるうちに何を思ったかを浮き彫りにして物語を終える。
純文学が、その芸術性により、人の心を揺さぶり、人間の感情の持つ複雑な味わいを想起させる存在ならば、CROSS†CHANNELこそが最高の純文学だというこの仮説も、ただの妄言以上の意味を持ちうるのではないだろうか。
以上、CROSS†CHANNELの「生きている人いますか」の言葉が無ければ今頃この世界から居なくなっていたかも知れない男より。
ミキミキと桜庭があのラストを肯定してくれたから、そのシナリオをロミオが描いてくれたから、今の自分は自分の存在を許す事が出来ている。
少なくとも、フィクション作品の中で自分の人生に最も大きな影響を与えたのはCROSS†CHANNELだ。
あの作品があり、あのラストを同じくハッピーエンドだと感じた誰かがいる事を知ったから俺は今生きている。
1人だけど1人じゃなくて、1人だからこそ1人じゃない(同じく1人を求める誰かがこの世界にいるのだから!)ことに気づけたから俺は俺を肯定出来るようになれた。
論理の飛躍
エロゲオタの文学コンプレックスはどこからくるのか? 「宮部みゆきや東野圭吾と同じ土俵のエンターテイメントだ」とは言わず文学に固執する。 もしかして「宮部や東野?そんなのワ...