私にはまだ人生でやりたいことがある
具体的にやっていることもあるし、まだ行動に移していないこともある。
上手くいってないこともあれば、上手くいっていることもある。
楽しいこともあれば、楽しくないこともある。
いい人もいれば、分かり合えない人もいる。
他人から見ると、私の人生は最高ではないがお先真っ暗には見えないだろうし、自分でも決して絶望ばかりではないと思う。
家は裕福ではなく、むしろ貧困層ではあったが、様々な環境上の問題が致命的なレベルに達さなかったことや、
持って生まれた性格が、歪んではいるものの生存にはある程度向いていたという運もあった。
だが。それでも。
周囲の人と談笑しながら、――もしかするとそれは談笑している擬態なのかもしれないが――同時に息苦しくて、早く死にたいと思ってしまう。
仲間と一緒にプロジェクトの成功を喜びあいながら、やはり死ぬしかないのだろうなどと頭の片隅で思ってしまう。
異星人の如く共感できない原理で動作するフツーのヒトビトと呼ばれる者たちに埋め尽くされたこの社会の向かう先では、私は淘汰されるべき存在なのだ。
時期が悪かった。場所が悪かった。そういう意味では運がなかった。
この今、この時代において、私を取り巻く小さな世界は、必死に擬態し存在をかき消そうとする私を、それでも尚異物としか認識しないだろう。
外の世界はどうだろうか。外に世界はあるのだろうか。少し程度が違うだけで、同じ世界の延長線上なのだろうか。
走り出したことはあっても、逃げ出せたことがない私には、どちらにせよ私の足では今の世界から上手く逃げ切れそうもない。
だから、死んで消えるしかないのだ。私が私を解き放つには、死ぬしかないのだ。
正直死ぬのは怖いし死にたくもないが、死ななければならないのだ。
死ななければこの息苦しさからは逃れられないだろうという確信めいた感覚が、気付いてしまったその時から、ずっとベットリと心にへばりついている。
やりたいことがあると言って、希望も目標もあると言って、義務や責任で自分の命は無価値ではないと屁理屈をでっちあげて、なんとか死なないように抑えつけている。
絶対にバレない方法で事故死にみせかけて莫大な保険金がおりるという話があれば、一も二もなく飛びついて、笑って跳ねられるだろう。
ビタミン剤でオーバードーズごっこをしながら精神の安定を保って生きながらえる精神が健全と言い難いだろうことは理解しているが、
発達障害にとにかくまとわりついてくる生き辛さは、私にとってはこんな感じだ。
発達障害の事はわからないけど 人生とはそういうものではないかと思います。 上手く行っている事と行かない事を抱え、死にたい時期もあったり… 自分を傷つけたり他人を深く傷つけ...