なんか普通に楽しくて拍子抜けした。やっぱり昔はあれこれと悩みすぎておかしかったんだなということを再確認した。
あの時期がなければ、もっと仲良くなれたんだと思う。でも、失った時間は取り戻せないけれども、今ある時間を進めていくことは出来る。
もっと仲良くなれたかもしれない友達、行けたかもしれなかった予定、出会うことになっていたかもしれない人たち。そうした過去の可能性に思いを馳せることは簡単だが、結局それは意味のない作業であって、目の前には現在と未来しか残されていない。
少し前に、人間は普通の精神状態の時は未来も過去のことも考えないようになっている、みたいなツイートを見て、なんとなく腑に落ちたのを覚えている。現在のことに目を向ける、それはつまり、他のことに目が向かないほど忙しかったり楽しかったり、眼前になにか興味を引くものがあったり、そんなことを考えている余裕、キャパシティやリソースなどないほど自分の中が何かで満たされていることであって(自分を満たすものがなんであれ)、そうなっていれば人間なんてそんなものなのだということなのだろう。生きるという本能に従って食料を集め休息を取り、歌って踊って子をなしていた頃の人類は、頭でっかちな考えなんて持つ必要もなく、ただ生きるという前提の元に忠実に目の前のことだけをこなして生きていたのかもしれない、それもちょっと羨ましいな、なんていう度を越した原始回帰的考えにも至ったこともあった。しかし今は、意外と過去と未来について思い悩んだりすることは昔からあったのではないかと思いもする。極端な話、そういう能力がなければ、歴史は進歩せず、人類は今もずっと、延々と本能のままに動物的な生活をしていたのではないか。それをしなくなったら、人間を人間たらしめる何かが失われるような気すらする。
過去を悔やむことと省みることの間には大きな差がある。前者は意味のない作業、後者は現在と未来を良くしていく上での不可欠な作業だ。僕は過去を悔やみやすい人間で、そうした自分を変えたいと思ってもいるが、それは時には逆説的な快楽を伴う一種耽美的な作業でもあり、抜け切らないクセ、中毒のようなものになって自分の中にすっかり定着してしまった。しかし、悔やんでいる自分の中に現在の自分はいない。そこには停滞した過去に耽溺する愚かな人間がいるだけだ。そんなことをしているくらいなら、少しでも今を楽しく、よりよくするための行動は何か考え、それに任せて生きたほうが余程良い。
この境地に至るまで24年かかった。これからは、少しでも現在と未来の自分に正直に生きようと思う。
頭でっかちなのでこうでもしないとうまく生きていけない。