2017-03-05

過去現在未来

沖縄旅行に行ってきた。大学院の同期のみんなと共に。

なんか普通に楽しくて拍子抜けした。やっぱり昔はあれこれと悩みすぎておかしかったんだなということを再確認した。

あの時期がなければ、もっと仲良くなれたんだと思う。でも、失った時間は取り戻せないけれども、今ある時間を進めていくことは出来る。

もっと仲良くなれたかもしれない友達、行けたかもしれなかった予定、出会うことになっていたかもしれない人たち。そうした過去可能性に思いを馳せることは簡単だが、結局それは意味のない作業であって、目の前には現在未来しか残されていない。

少し前に、人間普通精神状態の時は未来過去のことも考えないようになっている、みたいなツイートを見て、なんとなく腑に落ちたのを覚えている。現在のことに目を向ける、それはつまり、他のことに目が向かないほど忙しかったり楽しかったり、眼前になにか興味を引くものがあったり、そんなことを考えている余裕、キャパティリソースなどないほど自分の中が何かで満たされていることであって(自分を満たすものがなんであれ)、そうなっていれば人間なんてそんなものなのだということなのだろう。生きるという本能に従って食料を集め休息を取り、歌って踊って子をなしていた頃の人類は、頭でっかちな考えなんて持つ必要もなく、ただ生きるという前提の元に忠実に目の前のことだけをこなして生きていたのかもしれない、それもちょっと羨ましいな、なんていう度を越した原始回帰的考えにも至ったこともあった。しかし今は、意外と過去未来について思い悩んだりすることは昔からあったのではないかと思いもする。極端な話、そういう能力がなければ、歴史進歩せず、人類は今もずっと、延々と本能のままに動物的な生活をしていたのではないか。それをしなくなったら、人間人間たらしめる何かが失われるような気すらする

過去を悔やむことと省みることの間には大きな差がある。前者は意味のない作業後者現在未来を良くしていく上での不可欠な作業だ。僕は過去を悔やみやす人間で、そうした自分を変えたいと思ってもいるが、それは時には逆説的な快楽を伴う一種耽美的な作業でもあり、抜け切らないクセ、中毒のようなものになって自分の中にすっかり定着してしまった。しかし、悔やんでいる自分の中に現在自分はいない。そこには停滞した過去に耽溺する愚かな人間がいるだけだ。そんなことをしているくらいなら、少しでも今を楽しく、よりよくするための行動は何か考え、それに任せて生きたほうが余程良い。

この境地に至るまで24年かかった。これからは、少しでも現在未来自分に正直に生きようと思う。

頭でっかちなのでこうでもしないとうまく生きていけない。

なんか所々すごく気取った文章になってしまった。

乱文失礼しました。これは永久保存の訓戒として自分の中に持っておこうと思う。

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