例の「日本死ね」について。
思い返すと、この手の暴言にまつわる炎上騒動っていくつかあって、近年問題になってるヘイトスピーチとか、ツイッターから出てきた「アイヌ殺す」とか。「日本死ね」もその一つ。
個々の騒動をそれぞれ思い返してみると、「これは許せる」「これは許せない」「発言の自由は認めるけどボコボコに叩かれるべき」とか案件ごとに対するスタンスって微妙に違ってくるんじゃないかと思うんだよね。
例えば、
◆ 在日へのヘイトスピーチは公権力の規制も辞さないが、待機児童問題を顕在化させる意味でも「日本死ね」はドンドン言うべき。
みたいな人もいれば、
◆ 「日本死ね」は言葉づかいを慎んでほしいけど、文脈的にも特に害意のない「アイヌ殺す」までは叩かれなくてもいいんじゃない?
みたいな人もいたり、
◆ 表現の自由に照らせばどのケースも「発言の自由」自体は守られるべき。規制などもってのほかだ。
◆ ネット上と言えど、公空間で「死ね」だの「殺す」だのという言葉づかいは認められるべきじゃない。どのケースでも規制も視野にいれるべき。
◆ アベ政権がとにかく嫌い。政権への攻撃材料になるのなら何でもウェルカム。
みたいな人もいると思う。濃淡もあれば偏りもある。「これはOK、でもこれはNG」ってどうなの? と言いたくなる気持ちもわからなくはない。
だけど、よくよく考えればそういう「偏り」があるのって、ある意味当たり前なんだよね。
○○を貶されるのはどうでもいい、けど□□を否定されるのは我慢ならない。
例え理屈は立たなくても、感情レベルで対応に差が出てきてしまうのはもうしょうがないことだ。僕らはマシーンじゃない。許せるものもあれば、許せないものもある。
だけど、ちょっとでも自分の中に「多様な物の考え方を許容したい」という思いがあるのなら、何かを「許せない」「叩き潰したい」と思った時、一歩立ち止まって、
『相手にも許せるものと許せないものがある。自分がそうであるように』
と思いを巡らせてみるべきなんじゃないか。
自分が許せるものが、相手には許せないかもしれない。相手が許せるものが、自分にとってそうじゃないように。
僕らは自分と相手の間にある深い断絶を認めるべきだ。相手と自分が違う人間であることを認めるべきだ。「世界は変えられない」と認めるべきなんだ。
実際に別に相手が死んでもいいって思ってる人が多そうだけど
早く行き着くところまで行きたいんだけどね