作ヲタの嘆きというのが、分からなかったが今ようやく理解した。
おそらくだけれど、彼らの理想的な「作画を語る」という行為は、決して作画の”質”や”安定性”を述べるもの(「この作品、作画班頑張りすぎwww」「作画のクオリティ高い」)ではなく、作画の”中身”に対しての発言や議論であるはず。中身とは、例えば、食事風景でのちょっとした仕草や、キャラクターの動きや、派手なアクション・エフェクトでもどんなものでもいいけれど、そこに対し、何らかの言葉を投げかけることだ。「作画を語る」という文化が発展していった経過を、推測だが述べたいと思う。
作品に対して、「あの仕草がすごいうまかった」「手足の動きが面白かった」みたいな所から始まる(最初はもっと直感的な感じかもしれない。よく分からないけど凄いといった感想をもつのではないだろうか)。アニメを追っていると、次に同じような(似たような)作画を見かけることが多くなってきたり、もしくは自分の好きな作画(素敵な絵画に一目惚れするのと同じように)に出会う。すなわち、その作画をした原画マンへと辿り着く。「この人が描いていたのか」と、この時点で名前を覚える。その蓄積によって、「ここは誰々だ」という風な具合になってくる。
しかし、一部のアニメオタクが述べることは、あまりにも彼らのそれと乖離している。「作画班すげー」「作画崩壊してる」「万策尽きてるwww」などなど、どれもあまり作画の中身には関係のないものばかりが並ぶ。絵に興味があるというよりは、「作品そのものの異変(透ける現場の大変さ)」に対して言及しているように見える。中身について語りたい作ヲタと、現場の異常性について騒ぎたいだけのアニメオタクでは、あまりにもズレすぎている。これでは、作ヲタが牙を剥き出しにし、「作画崩壊」という言葉に過敏になり、先日のような事件が起こることも致し方ないと思う。しかし、「作画崩壊」という言葉の流行が悪いのは当然としても、そのような攻撃が頻発してしまうと、他のアニメファンは作画に対して異質なイメージを持ってしまう。その結果、このような酷く乖離した状況になっているのだと思う。