まず、乳房全体を甲、左乳房を乙、右乳房をπとし、私自身を珍、相手の女性を萬とする。
珍は日常的に萬の甲および、乙またはπを崇拝しているものとする。珍は萬の甲および乙またはπが大好きであり、常日ごろから甲および乙またはπのことを考えて生活をしている。そのため、珍は甲および乙またはπの写真や映像などを閲覧することが毎日の楽しみでありそれこそが生きている理由であると言っても過言ではないのである。
さて、珍は萬の甲および乙またはπが大好きであるので、当然のことながら萬の甲および乙またはπに触れたいという願望を常に持っており、切にそれを望んでいるものとする。できることなら可能な限り長い時間、萬の甲および乙またはπに触れていたい、もしくは揉みたいと考えている。実際に揉む機会があった場合に備え、すでに映像資料で研究し尽くしてある事を最大限に活かすべく、やさしく包み込むような手の全体の動きと、スイッチとしての役割をもつ乳頭(以下chikubiとする)への適度な刺激を同時に行えるようにイメージトレーニングを欠かさず行っている。
本題に入ろう。
先述の通り、珍は萬の甲および乙またはπそしてchikubiが大変大好きであるため、実際に触れたらそれはそれはさぞかし気持ちのいいことだろうという期待を抱いている。見るだけでは満足ができず、できることなら触りたい、揉みたいと切望している。よくよく考えてみるととても不思議なことだが、この「触りたい、揉みたい」という感情にはなぜか「触るときっと気持ちがいいだろう、揉むときっと気持ちがいいだろう」という感覚がセットになって備わっている。それは、モフモフの猫や犬を撫でると気持ちがいい、という類の感覚と同じものだと思っていたが、それがどうやら違うようなのである。この場合の「気持ちいいだろう」という感覚は、己の性感帯を触られた時に感じる快感と同類のものが得られるのではないか、という意味での「気持ちいいだろう」という感覚なのである。実際には触るのはこちら側であり、こちら側にあるフィードバックは手のひらの触感だけのはずだが、なぜか性感帯への刺激のような快感がこちら側にもあるのではないか、こちらの射精に繋がるような快感が得られるかもしれない、というような錯覚のような思い込みを期待として持っているのである。つまり、自身のお珍棒様へのシコリスティックが気持ちE というのと同様の事象が、萬の甲および乙またはπを揉みしだいた場合にも起こると期待してしまうのである。しかし、実際に萬の甲および乙またはπを触ってみると、当然のことながら手のひらには「柔らかいものを触った」触感があるだけである。それは悪いものではない。だがそれは、期待していたものとは違ったものであり、ここに期待値との落差がある。
ところで現代社会は便利なもので、大抵の問題は金銭の受け渡しで解決することができる。望む者がいて提供する者がいる、その両者の間を金銭が移動することで合法的かつ速やかに需給が満たされるというのは本当によく出来たシステムである。珍が萬の甲および乙またはπに触れるためにデートに誘ったり着飾ったりする必要がない。これこそ文明の賜物であると言わずしてなんと言おう。
今宵もまた珍は萬の甲および乙またはπを欲したため、うだつのあがらない労働をすることで得た金銭の力を利用することによって問題を解決したのである。
おっぱいやらかかった。めんどくなったおわり mn3