無気力。することも目標もあまりない。できればこのままぼーっとして生きたい
人間というのは割とよく出来ていて、自分の今いる環境に適応しようとする能力が備わっている。なにもしない、する必要が無い、という環境下において、なにもしたくないという感情が生まれるのは自分がその環境に適応している証拠で、ある意味当然のことである。だから、無気力から逃れるためには、なにかを強いられるような環境に身を投じればよい、ということになる。勿論、自分の能力や性格と、その環境とがあまりに乖離していると、生活は破綻してしまう。そうならないように、うまく環境を選べば、気力や欲求を取り戻すことは可能であろう。もしそれが不可能なようであれば、これをプリントアウトして病院に行くなり、諦めて無気力の海に溺れるなりすればよい。
気力や欲求を取り戻し、様々な事柄に精力的に取り組むことで、充実した生活が可能になる。充実した生活というのは、世間で流布されているほど良いものではないが、悪いものでもない。
退屈で満たされた環境に安住し、なにもせずにすむ環境に完全に適応してしまうと、些細な日常生活ですら困難を覚えるようになる(現にそうなりつつある)。症状の軽い今のうちに脱却すべき
極力なにもしない生き方というのもある。ニートなどはその代表格である。自分を変えることで既存の社会に適応するのではなく、現在の自分が満足できるように自分の周りの環境を造り替える、という選択肢もある
できるだけ何もしない生き方というのも、近年では少しずつ日の目を見るようにはなってきたが、まだまだ主流とはいえない。そして、先達を見る限り、何もしない生き方というのは割と困難そうだ、というのが正直なところだ。社会の風潮として、きちんと働いて、経済を回していくことが求められている。自分も社会の構成員である以上、これを無視することはできない。現段階では、楯突くよりは流される方が懸命だと感じた。
よって、これからは、自らになんらかの強制力のあるタスク(バイトなど)を課すことで、自己を変革していく、そして社会に馴染んでいく、といった方針をとることとする。
そうして、社会に馴染み、気力を少し高めつつ、電車で知らない町に行ったり、散歩、睡眠、ネットサーフィン、銭湯通い、といったのんびりとした時間を充実させていきたい。
なにかをすることによって、なにもしないことを達成できれば、それが一番良い。なにかをすることに熱中できるなら、それもまたそれでよい。
ということで、モラトリアムを脱却すべき、という結論に至った。次は(あるのかどうかわからないが)、どうすれば脱却できるのか、という実践的側面について考察してみたい。これが一番難しい。