ふんが〜
その会社は何もノウハウが無くて、そもそも社員が社長とその奥さんしかいない会社で、ボクも入社当時は学部生の4回生で、いままで講義ばかりでした。なので、ノウハウなんて無いんだけれど、本でほんとにちょっとだけ読んだきりだったんだけれど、なんとか1年間もかかったけれどサービスをリリースしました。
できあがったのは、ほんとにこれでいいのか?人から金をとれるか???というレベルのコードで、少しでも何かをいじったらすぐにサービスが停止してしまうようなしろものです。
ボクがこの経験でこの得たことのひとつは、ぼくが一所懸命に勉強して"正しいソフトウェア"を作ろうともがいたところで、チームにボクより低いリテレシの人が交じるとボクが勉強したく意味がまったく無くなるということです。
その会社はバージョン管理の導入を良しとしませんでした。社長がファイルに日付を末尾に付ければ良いと本気で信じていたのです。そしてリリース後になってからバグが出て、、社長はボクが新たに開発したプログラムを、修正前のプログラムにご動作で書き換えてしましました。
この経験でボクは、いわゆる闇堕ちをしました。いままで「リテラシが低い人でも働いているうちにいつかリテラシの高いやりかたが身につくと信じていた」けれど、でもリテラシが低い人が作ってしまったコードは、ボクが修正しても、その不勉強故にリテラシが低いひとはその修正された意味すらわからないのです。
また、修正されてもそれに対して不満を言う人もいました。これは社長ですら含まれます。それはプライドが原因だと、思います。誰しも、自分が”自身満々で書いた”コードに修正が入るのを嫌がると思います。ボクが彼のコードを修正してしまうということは、彼の能力がボクより低いと言っていることに他なりません。
ボク自身が「コードは人格を否定せずうんぬんかんぬん」と思っていても、コードには人格がこれ以上ないほど、出ているのです。それをみんな実はわかっているのでしょう?それでもコードの否定は人格を否定しないと、否定する側は免罪符としてそれを主張しているんでしょう?
ボクは人のコードを否定するうちに彼らの歴史を否定するような気持ちになりました。コードの否定しかしない人たちっていうのは、自分が守られたいだけなんじゃないんですか。私は「彼の人格を否定していない」ほんとに、心の底から言い切れない。ボクは、その人の不勉強に対して、罪が無いと言い切れなかった。そうはいっても、しかし、彼にはもしかしたら子供が居て、嫁が居て、家でなど勉強する時間がとれなかったかもしれないのです。それでもボクは言ってしまいました。彼に「圧倒的に勉強不足だ」と、そう言い切りました。もっと勉強して正しいコードを書いてこいとそう言い切れるのです。
ボクは罪深き人間なのでしょうか。彼がリテラシの引くままだと、彼の書く残りのプログラムは引きずられて、もっと水準の引くプログラムを書くはめになるのです。これは大変な苦痛なのです。