http://anond.hatelabo.jp/20130121001007
読む前は「吹雪の中を幼い兄妹二人が母親の薬のために奮闘するが、塩狩峠で行き倒れる話」だと思っていた。
イメージ的には「火垂るの墓」、あるいは「ベロ出しチョンマ」のひどく悲しいものを無意識に予感してしまっていたためか、現在26歳に至るまで一度も読んだことはなかった。
手にとって読んでみると、まあすらすら読める。
こんなに平易な文章で短篇集的なとっつきやすさを持っているものであれば、中学生くらいのときには読んでおきたかった。
いろいろと考えるきっかけにもなりえただろうことからなおさらそう悔やまれてならない。
内容。
あらすじを知っている人からすれば当然だったのかもしれないけれど、知らなかった自分からすればあまりにも唐突。
死亡フラグが立っていたとはいえ、それでもあんまりだなあと思った。
ふじ子かわいそうっていう。
あーでもそのやるせなさとかからの逃げ場所としてキリスト教が救いになったってことなのかなー。
理不尽なこととかにも黙って耐えるような、そのときのすがる先。宗教ってそういうものかね。
生きる意味すらも指し示されるような。
それもありかもね。そういう選択肢もあるんだねとは思った。
ただ最後らへんの、すげー影響があっていっぱい入信したとかそういう下りは「小説としては」いらなかったんじゃないかなー。。。
掲載誌を考えたら仕方なかったのかもだけど。
ただ死んだだけじゃなかったんだよーこんなに多くの人に影響を与えたような、意味のあった立派な死だったんだよーっていうのがちょっとあざとすぎた気がした。
あとがきとか解説について。
解説で、この本のテーマは犠牲って書いてあった。確かに、乗客のために命を犠牲にしたりだとか、吉川が自分の夢を諦めて「普通」を目指すだとか、いろいろな部分に犠牲というコンセプトが見え隠れする。
そういうものの見方を知ったことは有益だったけど、自分にはできない、やれない、やりたくないって思っちゃうなーと、この歳まで無宗教でダラダラ生きてきた人間は思った。
友のために命を投げ打つ、犠牲になることが愛。
そう思うのは勝手だけど、結局正当化するための理由でしかない。自己満足に過ぎないとしか思えないという考え方が拭い切れない。
根っからのキリスト教国に生まれてたらまたその考え方も違ったんだろうけど。
否定はしないけど、別に肯定もしない。受け入れるつもりもない。そもそも受け入れられない。
そういえば中学校のときに、卒業式で大地讃頌を歌うことになっていたのがたったひとりのキリスト教の生徒のために変更になったことがあったわ。
やっぱり、宗教が前提にある人とそうでない人って歴然とした差が根っこからあると思うわ。