2011-03-10

カンニングについて考えたこと

既に今更な感があるが、カンニングについて考えたことを書いてみる。

カンニングは取り締まる必要があるのか

カンニングをさせないように厳しくチェックを行おうと各大学対応に苦慮している。

電子機器の発展によってどんどんカンニングは高度化されるだろうから、その対応もきっと大変になるだろう。

そのためにお金もかかる。無駄な金だ。

そこで思うのが、そんな取り締まりをせずにカンニングをしないようなシステムを作れないかということ。

カンニングをさせてもその人だけが困るようにできればカンニングしないのでは?」

大学に入るのは勉強するためだとしよう。

(そして本来、大学とはそういう所だと思う。)

カンニングして大学合格しても、大学の授業について行くことができないのであれば、

学ぶことがないのだから意味がない。

からカンニングする意味がない。

ということは、大学に入るのは勉強するためではないのだろう。

何のためにカンニングするのか、大学に入るのか

どうやらカンニングするのは有名大学に入ったという証拠を得るためらしい

きっとそれは就職に有利だからだろう。

なぜ有利なのだろうか?

今でも有名大学の就職はそうではな大学と比べれば有利だろう。

それはなぜだろうか?

一つには入学できる学力があるから

もう一つはその大学で身につけられるのが素晴らしいものだから

正直に言って後者の理由で有名大学の就職が有利であるはとても思えない。

やはり入学できる学力があるからということになろう。

もし、そうなら別に学歴採用を決める必要はなく、学力採用を決めればよい。

つまり大学入試のような試験採用試験で課してその点数で採用を決めればよい。

ということは、大学センター試験を利用しているように、

企業大学入試を利用していることになる。

企業は独自の試験を作るべきではないか?」

すでにそういう企業は多く現れているだろう。

企業大学に「役に立つ勉強をさせろ」と言うよりも、

「こういう試験を出すから勉強してきてね」と言う方が良いのではないか

カンニングを取り締まるよりも、まずこういう構造的な問題が指摘されるべきではないか

それで困ることはないのか

今、有名大学に入ることは就職に有利だったとしよう。

そういう構造が人をカンニングに走らせるのだろうから、今はそれを認めることにする。

それでそのように就職して困ることはないのか。

それほど困らないと思うのはやはりどこかで

「一度どこかに正規社員で雇ってもらえばよほどのことがなければ首にならない」

という思いがあるのではないだろうか。

終身雇用は安心して生活が送れるという一方で、このような問題点も抱えている。

これも構造的な問題の一つだろうが、時代の流れは恐ろしく、

僕が取り上げて指摘するまでもなく、終身雇用は壊れつつある。

それで困ることはないのか

ところで企業に入るのになぜ学力で測られるのだろうか。

普通に考えればそれが必要だからだろう。

もし必要なのであればやはり困るのではないだろうか。

これもどこかで

入試に必要な能力社会に出て求められる能力は異なる」

という思いがあるからはなかろうか。

例えば司法試験カンニングして合格してもその後の業務に激しく差し障りがあるだろう。

しかしもし試験と実務内容が関係なかったり、実務に求められる知識が試験よりもはるかに少なければ、

カンニングして合格しようと思う人もいるだろう。

そもそも大学入試企業で働くためのものではないのだから

それほど関係がないのも仕方がない。

最初の問題に戻ってしまう。

では大学で学ぶことは社会に出て必要なことと関係がなくて良いのだろうか。

少なくとも「関係がない」と思っているかカンニングに走るのだろう。

やはりこれが問題なのである

大学は何のためにあるか

大学は何のための機関なのだろうか。

大学目的」で検索して出てきたのが以下の文章である

本学は,広く教養的知識を授けるとともに,

深く専門の学芸を教授研究し,

知的道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とし,

その目的を実現するための教育研究を行い,

その成果を広く社会提供することにより,

社会の発展に寄与するものとする。

分かりにくいが、最終目的社会の発展に寄与することらしい

そのために

教養

・専門

知的道徳的及び応用的能力の展開

の3つが上げられているように見える。

大学で学んだ専門知識が仕事に直接役立っている人もいるだろう。

教養も学べて良かったと思っている人もいるかもしれない。

では3つ目はどうかというと危うい。

その専門家大学教授をやっているかと言われるとよく分からない。

大学社会の発展に寄与するための信頼と権限が与えられているのだろうか。

そうでないとすれば、それは一体誰の責任なのだろうか。

大学は「社会の発展に寄与している」と堂々と言えるだろうか。

言えたとしてそれがどれだけの人にうなずいてもらえるだろうか。

大学の信頼が揺らぐことは社会全体が揺らぐ大きな問題であることを

自覚すべきだと感じる。

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