既に今更な感があるが、カンニングについて考えたことを書いてみる。
カンニングをさせないように厳しくチェックを行おうと各大学が対応に苦慮している。
電子機器の発展によってどんどんカンニングは高度化されるだろうから、その対応もきっと大変になるだろう。
そこで思うのが、そんな取り締まりをせずにカンニングをしないようなシステムを作れないかということ。
「カンニングをさせてもその人だけが困るようにできればカンニングしないのでは?」
(そして本来、大学とはそういう所だと思う。)
カンニングして大学に合格しても、大学の授業について行くことができないのであれば、
どうやらカンニングするのは有名大学に入ったという証拠を得るためらしい。
なぜ有利なのだろうか?
今でも有名大学の就職はそうではない大学と比べれば有利だろう。
それはなぜだろうか?
もう一つはその大学で身につけられるのが素晴らしいものだから。
正直に言って後者の理由で有名大学の就職が有利であるとはとても思えない。
もし、そうなら別に学歴で採用を決める必要はなく、学力で採用を決めればよい。
つまり大学入試のような試験を採用試験で課してその点数で採用を決めればよい。
すでにそういう企業は多く現れているだろう。
「こういう試験を出すから勉強してきてね」と言う方が良いのではないか。
カンニングを取り締まるよりも、まずこういう構造的な問題が指摘されるべきではないか。
そういう構造が人をカンニングに走らせるのだろうから、今はそれを認めることにする。
それほど困らないと思うのはやはりどこかで
「一度どこかに正規社員で雇ってもらえばよほどのことがなければ首にならない」
という思いがあるのではないだろうか。
終身雇用は安心して生活が送れるという一方で、このような問題点も抱えている。
これも構造的な問題の一つだろうが、時代の流れは恐ろしく、
僕が取り上げて指摘するまでもなく、終身雇用は壊れつつある。
もし必要なのであればやはり困るのではないだろうか。
これもどこかで
例えば司法試験にカンニングして合格してもその後の業務に激しく差し障りがあるだろう。
しかしもし試験と実務内容が関係なかったり、実務に求められる知識が試験よりもはるかに少なければ、
それほど関係がないのも仕方がない。
では大学で学ぶことは社会に出て必要なことと関係がなくて良いのだろうか。
少なくとも「関係がない」と思っているからカンニングに走るのだろう。
やはりこれが問題なのである。
本学は,広く教養的知識を授けるとともに,
そのために
・教養
・専門
の3つが上げられているように見える。
大学で学んだ専門知識が仕事に直接役立っている人もいるだろう。
では3つ目はどうかというと危うい。
その専門家が大学教授をやっているかと言われるとよく分からない。
大学は社会の発展に寄与するための信頼と権限が与えられているのだろうか。
そうでないとすれば、それは一体誰の責任なのだろうか。
言えたとしてそれがどれだけの人にうなずいてもらえるだろうか。
大学の信頼が揺らぐことは社会全体が揺らぐ大きな問題であることを
自覚すべきだと感じる。