2023-06-06

付与価値」とは元々謙虚言葉だった

「単体でも存在できる価値」があって初めて「付与価値」は意味を成す。

つまる所は士農工商世界である

まず権利を主張できる土地存在し、そこで米が育ち、それを炊く釜が作られ、それらを売る人間がいる。

そうした権力構造がいつからか反転し、最終的に売る人間こそが市場原理を牛耳り始めた。

いつからかモノの値段は付与価値こそが本体となり、付与価値を稼げないものは畑でそのまま潰してしまった方が良いぐらいに価値が落ちていった。

いまや一次産業ですら付与価値によって商売をしている。

たとえばシャインマスカット畑で生まれたけれどシャインマスカットを名乗れなかったブドウ価値は著しく落ちる。

これはシャインマスカットという称号のものが強力な付与価値を持っていることの証左だ。

信用、ブランドイメージ雰囲気、様々な要素が実態としての味以上にブドウ商品価値を左右している。

そもそも食べ物は食べてみなければその味は分からず、それでいて値段は先払いでの取引時に決定される。

先払い中心の社会であることが商品価値実態よりも「予想される価値」によって決定される状況を作り出した。

そして「予想される価値」を決定する要素の多くが実態のない「付与価値であるが故に、商品価値の主戦場は「付与価値」となっていったのである

もちろんリピーターを見込むためには商品のもの品質はやはり大事だ。

だがそこで重要なのも「実際に良かったのか」ではなく、顧客が「また買ってみたいと感じたかなのだ

たとえばギャンブルなんかは結果的にハズレの方を多く引いているはずなのに「次こそはあてて見せる」という感情を呼び起こす。

ギャンブルはこうして実態乖離した付与価値を生み出し続けることで、そこに金を払わせることで商売を存続させることを可能としている。

こういった付与価値と実際の価値の不一致は今や当たり前のものとなり、如何にして幻想価値を生み出すかが重要となってしまった。

この状況において、付与価値こそが市場支配者となり、そこに謙虚意識なんて最早ない。

売れるものこそがいい商品であり、いい製品であることは二の次となっていく。

付与価値による市場支配は一次産業二次産業蔑ろにするどころか、一次産業二次産業が率先して幻想付与価値を生み出そうとする市場を組み上げていった。

たとえば産地偽装といった行為付与価値創造という意味においては手法違法性を除けば極めて効果的な一手だ。

付与価値というもの実態ではなく幻想を扱うからこそ成立するこれらの手法は、多くの業界において「真面目にやるだけ無駄」という空気を作り出していった。

現代付与価値に毒されている。

付与価値こそが至高であるといった価値観、生産性本質付与価値であるという発想を一度考え直した方がいい。

価値を生み出すということと、価値があるかのように見せかけるということの区別ほとんど全ての人が失っている。

価値に対して対価を払うのではなく、つけられた値札に対して対価を払うということを当たり前にしすぎてはいないだろうか?

それが当たり前のことではないという感覚をいまや人々が失っていることが恐ろしい。

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