あんまり友達って感じでも無いなーと思っていたらいなくなってしまった。
友達はそんなに素晴らしくない、でも楽しい。変な話をしてきゃっきゃ笑うのは案外に楽しい。友達がいなくなってからはできるだけきゃっきゃしなようになった。うっかりきゃっきゃしてしまうと、あとで残念な気持ちになるし、ああ俺は友達がいない、めそめそ、と思う。じゃあって、そのきゃっきゃした知人と友達になったらいいのだが、いやまて、と思ってしまう。友達になりたくない、接近したくない、ていうか俺はいつもなぜか余計な気を回して、向こうから親しくされないように、ってしてしまうしどうしようもない。阿呆だ。その知人が悪いんじゃなくて、誰でも一緒で、悪い。悪くない。友達嫌い。なんでなんで。というのもわからないので、考えたんですけど、矢張り、脳内ぐねってわからなくってってってってしまったのでした。
友達とは何か、というと、人間関係のことであり、人ではないと思っていた、というか僕にとってはやっぱり人ではないな。友達候補A君がいたとして、A君が僕の友達になってしまったとき俺にとってA君はA君であるというアイデンティティを失って、僕にとってのA君は「友達」という代替可能なものに変わってしまうなと思っていたのであった。A君が僕の友達になったところでA君がA君であるというアイデンティティ?(アイデンティティでいいの?)は実際のせかいでは全く失われないが、俺の世界でははっきり失われたように思ってしまう。距離が近づいた途端見下すとかではなくて、最初から誰も無価値なのかもしれないし、よくわかんねえし、俺の中でA君の価値が下がるとか自分はA君に真摯でないからいやというのでも多分なくて、俺は多分最初から人をなめてるようなやつで自分がクズなのを許容しつつ人を見下しているのかもしれない、ということを意識することによって、それを認識してる時点で自分はそんな悪くないしというか賢いよねーと思っているのかも知れずそれ僕はいやだ。A君は俺にとって結局なんでもない存在だ。くず以下だ。くずやろう。ということを、そりゃそうだ、ということを認めても良い。いや、。
だから、つまり、きっとあらゆる人間関係は代替可能なのであるということがいやなのかもしれない。だから、そしたら自分はほとんど誰の代替にもなれない無能だ。でもしかし、お父さんお母さんだってそうで、彼らはそんな無能ではないが、つまりは代替可能で、別に彼らでなくても大丈夫だった。記憶を失ったあとにこれがお母さんだよと別人を差し出されたらそれがお母さんだろうし僕はそれでいいと思ってしまう。お母さんにお母さん足りうるものを求めてなんていない。お母さんはお母さんであればいい。親友だって恋人だって。こんな恋人にはもうめぐり合えないかもしれないといって、記憶を消されたのちに違う人を、似た性格や嗜好や顔の人を恋人として差し出されたら同じ事を言ってしまうかもしれない。君だけだ、君だけしかいない、この世には、とか言ってしまう。目がきらきらしているとか、頭が良いとか、気が合うとか、ちゃんとしてるとか、そういうのの代替可能な人はどこにでもいる。僕が彼女にそこまで求めているかというと求めてない。偶然手に入った副産物のようなものばかりで、魂の色を求めるくらいの求め方でないと、そんな、「君じゃないとだめだ」なんて言えない。俺は記憶を消されて代替の恋人を差し出されたときに魂の色が好みで無いと思わなければならないような気がしてしまう。しかし魂などそう信じられるものではない。
最近のネットの使い方は検索が主体でないと良さを活用出来ない気がしてきた。
今まで気になることだけを検索する姿勢でやってきたけれども。
昔と違いどうも自分が遅れている気がする。何かこう、人気記事ばかりに頼り、上辺だけをなぞっていて、自分自身にとって大切なことに触れ続けることが出来ていない。
これだけ見て、後はそこから広がっていくという感じの使い方が出来ていない。
そういうサイトがなくなってきたし、そういうものがもはや存在しない。
なんだろうこれ。
なんとなく思ったことは、昔はサイト数が多くなかったため、1つのリンク集のようなサイト(ヤフーのカテゴリ等)で事足りたということ。
今は多く、さらにブログサイトもバラけているためTechnoratiのようなサイトから検索するのがええのだということ。
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http://anond.hatelabo.jp/20061209150305
ディレクトリ以降は上手く活用できていないなぁと感じる。与えられる情報を処理するだけでネットの中で能動的に行動出来ない。
2ch内検索やFlicker内検索、Technorati検索、Socialbookmark内検索などは出来るようになってきた。
Googleも上手く使えているか?と言われるとそうでもない。むしろ使えていない。
そこそこ大きい規模の中で同じようなものを扱ってるサイトから目的物を探すことを最近はよくやっている。これは使える。
Socialbookmarkやはてなのようなサイトで気になる人間を追いかけたら上手くいくのではないか?と思っているのだけどそれは上手く行なえていない。
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そしあるぶくまーくとめたたぐ
del.icio.usやはてダで自分自身にメタタグ付けれたら面白そうだと思った。
僕はネタばかりブックマークするのでネタタグを自分自身に付けるだとか。私はアカデミックよん☆って人はアカデミックタグをつけるとか。
その方がよりsocialな繋がりを作りやすくない?英語を勉強してるんだとかって人はlearning_englishってつけたりすればモチベもあがるのに。
それでその人物ごとのメタタグごとに掲示板作ったり。交流サイト作ったりすればなかなかに面白そうじゃね?
うひょー
自分で似た嗜好の人を探すのが大変なんだよなぁ。労力がいる。
唐突に過疎
なんで変えたいのか知らんが、なにか強烈な体験をすれば変わると思うぞ。
トラウマになるような体験をすれば、まるで人が変わったようになる。
という表現はあまりしないのは、普通買い替え不能だからだろうか。
子供の頃に願ったのは、自分が帰る家があり、冷蔵庫を開ければいつも食べ物があり、時折外食に出かけ、気がむいたらコンビニでおやつを買ってみたり、寒い夜にはストーブを焚き、熱い風呂に入り、温かい布団で眠る。風邪をひけば風邪薬を買い、骨を折れば医者に駆け込み、しばらく仕事を休んで養生する。そんな毎日。この体の命が尽きるまで、そのように平穏に暮らせればよいなと真剣に願っていた。自分としては、これは相当に贅沢な望みだと思っていた。特に「コンビニおやつ」のあたりが(笑)
幸い、この生活は、現状では実現している。
近所の大型ショッピングセンターに入ってるHMVに行ってperfumeの新しいアルバムを買おうとしたが売ってなかった。
仕方ないのでamazonで注文しようかと思いつつ、帰りがけに何気なく別の階にあるヴィレッジバンガードに行ったら平積みで売っていた。しかも「DVDつきはこの初回限定版だけ!」と手書きpop付きで。こうやって類似カテゴリのテナント同士が共存しているのか、と思った。
過去ログを読んでいないので、すでにある議論かも知れないが、一応。
ちょっと対比させると面白いと思ったのは、
と
(2)「匿名ダイアリー+はてブ(のコメント欄)」というシステム
である。
従来の(1)のシステムの場合、記事を書いた人間の匿名性は低く(少なくともハンドルで名乗る必要がある。捨てハンも可能だが、ネット人格的に一貫性が無くなり、リセットすることになる)、コメント欄にコメントする人間の匿名性は高い(誰が書いたか分からない。自作自演可能)。
対して、(2)のシステムの場合、記事を書いた人間の匿名性は高く(誰が書いたか分からない。自作自演可能(まあ、少なくともはてなユーザーではあるが))、はてブのコメント欄にコメントする人間の匿名性は低い(少なくともハンドルで名乗る必要がある。もちろん、捨てハン可能はだが)。
さらに、気がついた点を思いつくまま。
・(1)のシステムの場合、ブログ主にはネットコミュニケーション的に高度なスキルが求められる。ので、自分の器を知っている人間が一貫したネット人格を保ちたいならば、自分の手に余るような、賛否両論が予想される実験的な記事、過激な記事は避けた方が賢明である。一対多での戦いになりやすいシステムであり、しかも人格をリセットできる多の方が有利なシステムでもあるからだ。
・(2)のシステムにおいて、賛否両論が予想される実験的な記事、過激な記事を書いた場合どうなるか。記事の書き逃げは可能であり、逃げ道は保証されている。そして、逆にはてブでコメントする人間が一貫したネット人格を保ちたいならば、過激な挑発や罵詈雑言を書くのはその人間にとって不利な戦いになる。まあ、現状、そうした現象は見ていないのでどうなるかはよく分からないが。
・現在、はてブが日本のソーシャルブックマーク分野においてはトップシェアである。また、同じはてなということで、必然的に匿名ダイアリーの記事は、はてブされやすい。つまり、自分が責任を負わずに、賛否両論が予想される実験的な記事や過激な記事をなるべく多くの人に見てもらいたいならば、匿名ダイアリーで記事を書いてみるというのは、一つの手として有効ではないかと思われる。
・さらに蛇足的にいうならば、匿名で記事の場合、自分の敵対する陣営の人間が記事を書いているとしても、読者には分からないため、比較的、いろいろな立場から、客観的な意見が聞ける。(まあ、そこまではいかないでも、自分が普段、反感を持っている人間の書いた記事にはやはりフィルターがかかるのは当然である)
Q1.一生物として欲しい物は何かありますか?
YES → 3458人
NO → 246人
無回答 → 23人
──それはどんなアイテムですか?
1.時計…(2051)
2.リング…(709)
3.ジュエリー全般の中から…(293)
4.インテリア…(224)
5.バッグ…(51)
装身具の前にもっと必要な物があるんじゃないか。生物として。
農作物に使用できる降雨量などの淡水供給量をベースに計算すると、地球で持続的に養える最大人口は50億人程度らしい。今オーバーしている部分は地下水(帯水層)などの過去の蓄積を食いつぶしているに過ぎない。(実際には海水淡水化技術も進んでいるので、世界中の帯水層が干上がるころにはもう少し数字は増えているかもしれない。)
ああっ、とうとう床に本を積んでしまった。
本は常に厳選して、断腸の思いで「どうしても残したい本」以外処分してきたのに。
未読がちょっと多めに溜まってしまって、とうとう本棚と机からはみ出した。
むぎゅー! 凄い敗北感。
じゃ、本読みます。
http://www.nhk.or.jp/korekara/
http://www.nhk.or.jp/korekara/nk10_ns/ques.html
というわけで、全角500文字以内で答えて下さい。(20点)
この報告書を読むと、多くの県で二桁の処分が行われている一方、処分件数ゼロ(不正存在せず)の県がある。
具体的には以下の県だ。
率直に言って、信じられない報告である。この七県の社保庁事務所では本当に不正は無かったのだろうか?
文科省では「いじめゼロ」の報告をずっと受けても点検や再調査などは実施してこなかった。社保庁も「不正ゼロ」の報告をそのままにしておくつもりだろうか。
「バレなければ不正をしてもかまわない」「不正があっても不正はゼロだと報告すればよい」。ルールを管理する人たちがそういう態度をとれば、ルールに縛られている人たちはルールを守る動機を失い、モラルハザードが発生することになるだろう。それによる国益の損失は計り知れない。
ありていに言ってしまえばログインして書き込みしているという事があるだろうな。
「はてなの中の人」には、この文章を書いているidが知られているという事実が心理障壁として作用しているんだろうと思う。
まー、あの某巨大掲示板もIPぶっこぬかれているという意味じゃ完全に匿名ではないとは思うけどね。
で。混沌についてなんだが
水彩絵の具とかを何色か、水に垂らしていくとマーブル模様になるよねという遊びはお前もやった事があると思うんだが
マーブル模様を筆とかでぐにゃぐにゃってやって色が混じったり模様に規則性が無くなっていく状態が「混沌」なんだ。
でも、このぐにゃぐにゃがおもしれーって筆をぐるぐる動かし過ぎると、ただの濁った水になってしまう。
混沌も行き過ぎるとつまんねー、って事なんだとオレは思っている。
(前回:『はてな』がイノベーターに成り得ない5つの理由 - はてな匿名ダイアリー)
20:02:05 - 2006/12/09(土)
18:15:30 - 2006/12/10(日)