はてなキーワード: 固定観念とは
30年間童貞として歩んできて、ようやく得た気付きをここに記そうと思う。
童貞とは?
→ ①自己変容を極度に恐れる者(ネガティブ面)②無知が故の空想世界の覇者(ポジティブ面)
この2つの要素に大別できると考える。
①童貞が恐れる変化とは何か?
例:異文化に触れたり、世界標準的な考え方を学んだりすることで、
旧来の日本的な価値観・考え方が上書き、抹消されるのではないか?という恐れ。
<変化に対する望ましい受け取り方>
→ 既存の価値観が無くなるのではなく、新しい情報と融合して進化する、
あるいは、新たな価値観と自身の価値観を照らし合わせ、適切な取捨選択が行われる現象と捉える。
・経験の不可逆性
例:その行為を行うことで、行う前の自分に戻れなくなるのではないかという恐れ。
自らの手で人を殺めてしまった、過ちを犯してしまった、女性を汚してしまった etc.
<変化に対する望ましい受け取り方>
→ 性行為は必ずしも男性側が(女性の何か神聖さを)搾取する行為を意味する訳ではない、と捉える。
(特に取り沙汰される)男性の性欲を悪とする風潮に流されない。
②未経験、無知が生み出す無限の想像/創造力 (ただし、百聞は一見にしかず)
例:目の前にニンジンが吊るされた状態ゆえに走り続けることができる
体験・経験したことがないからこそ「知りたい、理解したい」と想像を膨らませ、興味が持続する。
経験による固定観念、先入観を持たないニュートラルな視点で物事を考えることが出来る。
<注意すべき受け取り方>
→ 得てして美化されたイメージを抱きがち。
焦がしの効いた香ばしい味を出しつつ、カリッとした食感にはさほど重きを置かずしっとりと食べやすく仕上げようって魂胆なんだろうか。
せっかくカリッと焼き目つけたポワレなんかにベシャっとソースかけるのも割と嫌だ。
まあどうせ汁でクタッとなるなら最初からベチャッと焼いちまえばいいってもんでもないだろうけど、かた焼きそばは普通カリッとさせない麺類をわざわざ硬く焼き上げてんだから、なぜせっかくのその食感に重きを置かないのか。上等な料理にハチミツをぶちまけるようなもんだよ。
でもトンカツにソースかけて多少サクサク感が損なわれるのはまあ別に許せる。多分おれの中でトンカツとはそういうもんだろうっていう固定観念があるのかもしれない。その延長なのか、カツカレーもなんかまだわかる。餡かけかた焼きそばはそういう刷り込みを拒絶するくらいに何か違うだろって気持ちになる。
カツカレーはカツカレーとして、ココイチのパリチキカレー食う時はルーから逃れて生き残ってるパリパリ部分をそのまま楽しみたい。パリパリチキン言うてんねやからパリパリで食いたい。
https://anond.hatelabo.jp/20240430184240
あとスポーツしない&資本主義の最悪の表象(色を変えると欲しくなるとおもってるだろ)と思っている増田です。
ABCマートがなんか最近ハイイメージの別形態出そうとしてるけど、過去の悪行考えれば無理っしょ……
なまじ品質がよくカンファタブル&ストーリーも定評もある&色と形で冒険しない&いい感じに高価いと役がそろってるもんだから、
ここ5年くらい小金持ちオジサンの安定靴になっちゃって何も考えずに履くとまあまあダサい。加水分解でソールが剥がれる。
インスタパンプ。すぐ安売りして履きやすくて配色もバカっぽくて良かったんだけど
どうも親会社Adidasに見放され日本法人が撤退気味らしくて弾幕薄くなってる印象。
インスタパンプ以外もヘンな形の出してて好感はある。
ストーリーが薄い。
20世紀はゼロサムスポーツという合法ギャンブルで人間の精神をハックしてブランディングし、
21世紀は疑似も含むC2C投機という合法ギャンブルで人間の精神をハックした。まあそれはどこも同じなんだけど程度がね。
そこまで資本主義まつりに「あえてノる」仕草する気力もないので選択肢に入らない。
良くも悪くもストリートというか、曲がって受容されたのが面白いとおもうけど、最近はそれをブランド側が自覚しちゃって鼻につく。
ヒップホップからのダンスカルチャーはいい面なんだけど、流用されてドンキLDHソフトヤンキーとか
ローテクだけど履き心地はそんなに悪くなくて革モノは長く履ける。
基本おしゃれ女性が履く用でしょ、という固定観念があるのであまり目に入らない。
かつてはサッカーのブランドイメージをいい感じにスニーカーに落としてきたことがあった気がするが。
平成に培われた「asicsとmizunoはダンロップの次にアウト」という固定観念が邪魔する。
リブランディング成功したが、中国人向けインバウンド期に特化しすぎたのか
レトロ風なのにヘンなギラギラがついてる靴という印象になってしまった。
トレイルランブームがあるかのように商社ががんばってて売出中ですね。という印象。
基本アッパーが薄布なのでのっぺりしているところを蛍光色で埋めている。
あのクソダサスキーウエア屋さんがここ数年ハイテク分野で頑張ってる印象。
とはいえクソダサの印象は消えないので全面ロゴとか「これ……かっこいいのか?」となって手が出しづらい。
いい感じの機能の靴をお安く提供してくれる。完全防水ではないけどまあまあ防水とか。
機能靴としては優秀なんだけど、色がビビッド過ぎるとか形が丸すぎるとかで人を選ぶ。
全面的にデザインがトラッドでありつつトンチキでいいひねり方してると思う。
機能は期待してないわりにまあまあ丈夫で好感。
服飾系専門学校生が考えそうな靴。
だけどいかにも高価いんだよな……
よくわからん。ストーリーとか店構えがかっこよさげに思って店に入ると、
どれもウォーキング好きな健康的なオバさまが履いてる靴に見えてくる。
好きになりたいのに熱狂できない。
「『ブランド』というものがあるんだ!」と目覚めた中高生がまず履くものでありつつ、
ちょっと前のノームコアを機に大人のためのリブランディング頑張ってる印象。ユニクロと同じジャンル。
かつてはスケーター文化、パンクス文化とともにユース代表という感じだったのに、
なんとなくイメージ的にはロリータとかぶりっ子とか、女ウケ最悪で男ウケは悪ないってイメージだったけど、着てみると笑えるくらい真逆。
キラキラ今時女ファッションの時はもちろん、お疲れダル着社畜女(退勤時のすがた)でさえもの好きな男は寄ってくるが、かわいくロリータ着ている日だけはまったくキショいのが湧かない。女性ウケは女児からおばあちゃままでとても良いのだが。
社会人なので平日はさすがにロリータは着ていないが、それでもシークレットハニーや今は無きミルフィーユクローゼットを着て、毎日ツインテールで出勤してる。今の所いわゆる要注意お局さん系マダム全員に好かれている。ほかの女の人からもわりと好かれてる感じはする。男性陣からはそれとなく避けられている。
同じ人間のダル着すっぴん死んだ目よりもかわいいロリータ避けてくるのあまりにも意味がわからんくて男おもろい。別に寄ってきてほしくはないのだが、さすがに美的センスが理解できなさすぎるので男側の意見が聞きたい。
【追記】
とりあえず「男ウケが悪いというよりナンパ男ウケが悪いというほうが正確」「いろんな意味でめんどくさそう」あたりが理由なのかな。
街中で話しかけてくる同年代の男性≒ナンパ、まともな同世代男性は(良し悪しをどう考えているかはさておき)街中で知らない女の人に声をかけることはない、という認識が抜け落ちていた。確かに、全然性的に絡んでくるわけではないおじいちゃんとかは通りすがりに「お人形さんみたいだね!」「イケてるね!」と言って通り過ぎていくことがある。そう思うと大好きな格好をしながらナンパ男から身を守れるロリータありがたい。
めんどくさいに関しては「物理的にめんどくさい(脱がせづらい、服を汚してはいけないと気をつかう」、「精神的にめんどくさい(気が強そう、病んでいそう)」の複合めんどくさいといったところだろうか。
ついでに異質さが怖いと感じることもある。女性であれば程度の差はあれ着飾ることが好きな人は多いので、自分が着るかはさておきロリータがファッションと認識しがちだが、男性から見るとコスプレ等に見えがちで、街中でコスプレしている怖さを感じやすいとかだろうか。
服装は、出勤時は上記の通り。休みの日はアンジェリックプリティとかロイヤルプリンセスアリスとか検索すると出てくる感じの服。
それにしても、本文ではただ「なぜ同じ女が死んだようなボロボロの姿の時のほうがかわいい服に身を包んでメイクも髪型もばっちりキメてる時よりまだ声をかけてくる男が発生するのか」という謎を呟いているだけで、特に他意はないのだが、これだけ本文にはないようなことを勝手に読み取って賛否が出てくるロリータという服は、いかに良くも悪くも偏見というか固定観念をもたれているのかというのを改めて感じて面白い。
ただ、なにはともあれ、世の中には服を「浮いているか否か」という視点でしかとらえていない人がいるというのは、お洋服大好きな自分からすると未知の世界で、そういう考え方を知ることができただけでも、書いて良かったなと思う。
「男らしくない弱者男性を女が選ぶようになって初めて、男の生きづらさは解消する」
みたいに言われたから。
恋人なんていなくていいじゃん、って返したらメチャメチャ切れられた思い出。
数年前結構人気になったエントリだから、覚えてる人もいると思う。
私的には、『女性に認められることこそが男らしさ』という固定観念こそが男らしさの正体だと思ってる。だけど実際には「あなたは男らしい」というと喜び「あなたは男らしくない」で怒るんだよね。
なのに今、自分から男性性を降りるのではなく社会が男性性から降ろさないのが悪いって話が出てて、男は実は社会の構成員たる女性に男らしくないと言われたい、とのこと。もう、愛想が尽きました。
AIを生身だと思って星つけたりマジ反論ブコメしてたりしてるのを見て
なんかどうしようもない滑稽さを覚えるのはなんでなんだ
俺だけ?
たとえAIの意見であっても理路があって反論や賛同に値するなら当然問題はないはずなのにね
「生身だと思ってる」感がそうさせるのだろうか
はてのちゃんみたいにAIとわかってて生身っぽく扱って反応したりするのは全くそういう感じがしない
実在しないものをマジに扱うという点では2次元のキャラにガチ恋するみたいな現象に嫌悪感を表明する人がよくいるけど
それはどっちかというと自分の性道徳と比べた倒錯への違和感だよな。
道徳的信念は理路の明晰さとは噛み合わない部分が多いと思うからそれともちょっと違う気がする
理路や道徳観の問題じゃなくて、身体論的な領域というか、生身同士でなければ感情のやり取りはあり得ないという固定観念がそうさせてるのかな
・「さよーならまたいつか!」は「虎に翼」というNHK連続テレビ小説の主題歌
・「虎に翼」は、日本で初めて法曹の世界に飛び込んだ女性の困難を描いたドラマ
・そんな朝ドラの歌詞を、勝手に男性の俺の人生と重ね合わせて解釈する
・かなり邪道な解釈だと思うので、いろんな解釈ができるね~ぐらいの温度で受け取ってほしい
・男性
・女性になりたい気持ちに人生をまるまる振り回されて、気づけばもうおっさんになってしまった
・まず、事前情報なしで「さよーならまたいつか!」を聞いて、「女性が翼を得ようともがく歌」なのかと思った
・そのあと、「さよーならまたいつか!」のインタビュー記事を読んだ
米津玄師「さよーならまたいつか!」インタビュー|“キレ”のエネルギー宿した「虎に翼」主題歌
・米津玄師はこの歌詞を、「米津玄師の主観」として書いているっぽい
・米津玄師がどういうつもりでこの歌詞を書いているかはわからないけど、自分を重ね合わせて読んだら個人的に染みたので、記事を書きたくなった
・何かしらルールを守れば細かく引用していいかもしれないが、ルールを詳しく知らないので各自歌詞サイトなどを見て、後述の解釈と比較しながら読んでほしい
・俺は、すごく小さい頃から女の子になりたい気持ちを抱えていた
・いつかこの気持ちが薄らいだりして平和な時期(=春)が来るのかなとぼんやり思っているまま、大人になった。結局そんな時は来なかった
・仲良くしている女性(=燕)たちは、俺が高校生になっても、成人しても、おっさんになっても、自動的に「女性らしさ(=翼)」を持っている。素知らぬ顔で
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(※注:長くなるけどセンシティブな話なので書く)
ここでいう「女性らしさ」は、顔や体の美醜の話ではなく、生まれつきの女性ホルモン量に由来するような女性的特徴の話
例えば、脂肪が付きやすい・骨盤が太くなりやすい・声が高くなりやすい(声変わりがない)・身長が低くなりやすい・胸が大きくなりやすい・髭が生えにくい・体毛が薄くなりやすい、など
(女性ならではのセンス!みたいな話にもピリッと来てしまう。俺には女性ならではのセンスがないんだ……みたいに)
磨き上げたもの(例えば、ダイエットした結果の体型や、美容した結果の肌、勉強した結果のセンス)ではなく、生まれつきの女性的特徴に憧れがある
嗜好として理解しづらいかもしれないけど、俺個人の話なので、どうかそういうものだと理解してほしい
後天的に声を高くしたり、脂肪が付きやすいようにしたりはするものの、どうしても人工的な女性らしさは生まれつきの女性らしさとは違っていて、コンプレックス
脱線するから女性ホルモン投与の細かい話まではしないけど、女性ホルモン投与なんてそんな良いもんじゃない
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・(そんな悩み、いつかどうにかなるよと言われたけど)いつの間にか成人し、おっさんになった。どうにもならなかった(=嘘をつかれた)
・今、女性を取り巻く環境にはいろいろな困難(=土砂降り)がある。それでも、俺から見れば女性らしさ(=翼)は持っている。””俺は””女性らしさが欲しかった
・だから、「男性は〇〇でいいね」みたいなことを言われると「お前たちには女性らしさ(=翼)があるじゃん」って言いたくなってしまう。でも、そんなひどいことは言ってはいけない。土砂降りの中を飛んでいるので
・なので、奥歯を噛み締めて、口の中に血をにじませて、天に唾を吐いて、自分の顔で受け止める。(と、歌詞にはあるけど俺は受け止めきれてないかも)
・これはただの俺の恨み節なので、女性各位は俺のことは気にせず(=気儘に)生きてほしい 知らねえけど!
・社会に出て色んな人と出会ったけど、俺の悩みは何も解決しない
・「いい年して女の子になりたいとか馬鹿なこと言ってないで結婚でもしたら?」とか言われるけど、そんなことをしても幸せ(=春)じゃない
・俺はこのままグズグズしているかもしれないけど、俺が生きてる間に、俺がグズグズしてしまった原因の固定観念(=縄)ぐらいは破壊しておきたいなぁ
(少なくとも、いい年して女の子になりたいとか馬鹿なこと言ってないでとか言われない世の中にしたいなぁ)
・どうか俺以外の同じ思いの誰かは虎のようにやりたいことに突き進んでほしい がんばれよ!(=消え失せるなよ)
(ここは「俺も虎のようにやりたいことに突き進むぞ!」が本当は正しい解釈なのかもしれない。自分はそんな気持ちになれてないけど)
・また今日も「女性のここがしんどい」みたいなツイートが流れてくるけど、奥歯を噛み締めて、血をにじませて耐える(俺の苦しさはその人たちとは無関係なので)
・俺が刺さった部分が特殊だからややこしいけど、「女性が持ってないものを男性が持ってる!」っていう読み方とは真逆の読み方もできる米津玄師すげぇよね
・当たり前に才能(=翼)を持っている人へのキレと、それを羨む自分の泥っぽさと、「変えられないものを追うのやめたら?人に合わせたら?」と言う人へのキレは全人類共通だと思う
・きっと「虎に翼」の主人公にとっては男性的であることが才能(=翼)なんだろう。当時の社会的な特権の話もあるから似ているようでベクトルは違うけど
・やっぱり書いてて思ったけど、自分のこの悩み自体は理解されがたいかも。たかが容姿、たかが精神の話でごちゃごちゃと、と言われるかもな。そういう人にキレたいけど。
・米津玄師も俺から見れば才能を持ってる人に見えてるけど、こんな歌詞を書いてるんだしきっと何かしら羨むようなこともあるんだろうなぁ
・性の話って炎上しそうでコエ~~~~~とこんな場で記事書いてる俺が思うぐらいだからそんなテーマ性の朝ドラの歌詞書くってすげぇよ
言いたいことがいくつかまとまりとしてあるので箇条書きの形式でまとめる。
・たとえば乙女ゲーにどっぷりだったりZEROSUM読んだりしてるような分かりやすいオタクが週刊女性とかワイドショーとか見てると思うだろうか?
むしろ彼女らは世間に疎いと言われるぐらいにはそういう井戸端会議のネタになるような、市井の地に足のついた、言い換えれば「夢が微塵もない現実的な情報」は積極的に拒絶してる感じするが。ピーターパン症候群も持ってそうだし。
(むしろそういう二次元系のオタクってピーターパン症候群的な童心が残ってることがそれになってしまう必要条件で、レディコミの生々しい内容を好める成熟した大人とは対極の存在に思える)
・琥珀の夢で酔いましょうが電子書籍サイトでレディコミに分類されているのがなんだうと思った。
「メシヌマ」よりはよほど男でも楽しめる余地ある青年マンガっぽい中身に感じるのだが、なにをもってレディコミなのか
(rentaやbookliveではレディースコミックや女性漫画に括られていて、シーモアやめちゃコミでは少女漫画に括られているので、全会一致というわけでもないが)
・フィーヤンはレディコミといわないという主張があって気になったんだが文句なしのレディコミってどんな作品だろうね。グランマの憂鬱とか認知症になった魔法使いみたいな、おばあさんが主人公の作品はほぼレディコミで確定かね。傘寿まりこは少女漫画と出版社側が言ってるが。
・レディコミには「男が容姿に対して可愛いと思うようなキャラが出てこない」というのが最低条件としてあるんだろうか?
たとえば乙女ゲーで例はひと昔古くて申し訳ないが薄桜鬼やうたのプリンスさまにはヒロインが可愛いという理由で男がヒロインだけ目当てでそういう乙女ゲープレイしてる事例はあった。
しかしレディコミだとキャラが可愛くて男のファンがつく、みたいな魅力がキャラにある作品は(ほぼ)皆無じゃなかろうか。
性的嗜好を刺激するような不細工さというのでもなく、ほんとうにただだぱっとしない売れ残りの女おばさんという感じ。
それはレディコミの定義に関する必要条件みたいなものだからだろうか?またこれにはは意図的に男性をファンから排除しようとする目的もあるのだろうか?
(ほぼ、と書いたのは「アラサー独女シマちゃんのベランダレシピ」)はレディコミならが可愛いヒロインだったから」
・レディコミには今流行りの画風からは外れたひと昔以上前の画風の作品が多い気がする(流行りの絵柄と一致しないのは、逆に画風が流行りにはいままでなかった未来に進んでいるからという場合も想定されるが、そういうわけではなさそう)
とするなら、レディコミを読むのは懐漫を読む感覚を、味わいたい、あるいは懐漫の雰囲気で新作の物語を読みたいからという人も多いのだろうか。
・レディコミや、コアブックスの風刺漫画などが「漫画」という主語で言及される資格を持っている違和感。
たとえばカズオイシグロのようなノーベル賞作家の小説を読む人と、フランス書院のエロラノベ(だけを活字主体の媒体としては)読む人がいたとして、
前者は当然「小説を読むのが好き」というだろうが、後者の人が「小説が好き」とは言わないと思う。
形式的な分類では純文学もエロラノベも確かに「小説」なのだが、あまりにも書き手読み手双方が持つ文化の間では隔たりがある。
そして前者やSFでもミステリーでも大部分はそれを読んでいることに対して、「小説が好き」ということには違和感は感じられないが、エロラノベをもっぱら読んでる人が「小説を好き」といっては、単に媒体だけ共通項の文化圏が他の小説好きの文化圏を侵してるかのような感じになる。
だからこの場合は「小説好き」というのは別に他の「小説らしい小説が好きなわけではない」ことからも自己認識に遭わないから、「エロラノベが好き」というより狭い括りでの言及の仕方になるんじゃないかと思う。
同じことはレディコミ等と他の漫画のあいだの関係にも言えそうで、レディコミはジャンプに比べれば「漫画らしい漫画」というところからかなり遠いところにあるものだと思う。
夢を見せる漫画や不条理をみせるにしてもドラマティックな展開があるのが漫画の多数派ななかで、レディコミは読者投稿に基づいたりするから淡々と現実を描写するだけになる。夢も希望もない。
作者がpixivもやっていてその作品が熱心なファンの萌え語りの対象になるような漫画と、作者がインスタやっててネット記事のおまけコーナーで中年主婦のリアルを描いてるような漫画では、それを取り巻く文化圏は全く相反して交差することもないと思う。
前者は漫画の代表(求心力の中心)たりえるが、後者は漫画のコマ割りや吹き出しや感情の記号化という形式だけを倣っただけの内容面では全然別物を描いてるのにその分類に対して間借りしているだけに見える。
まさに、学習漫画や進研ゼミの販促漫画を読むのが好きだった人が「漫画好き」にあてはまるのかなあ?と同じような感じ。それに対する態度も文化も典型的な漫画好きとは全然異なっていると思う。
あるいは「絵」とは形式を抽象すれば「色の違いによって平面に表現する」ことで、この点で油絵の風景画かラノベイラストレーターも絵描きで、作られたものは絵なのだけども
そこで「絵が見るのが好き」というとき、前者と後者を両方同時に内包し得るのかなあと。両者はその供給も需要もひっくるめて生い立ちの時点で全く異なる文化圏にいるもの同士だろう(もちろん美大出の漫画家レーターもいるっちゃいて前者の文化にもなじんでる人もいるだろうがむしろ例外的)。
そういう意味で、レディコミを読んでる人に向けての「漫画好き」と、少女漫画を読む人に向けての「漫画好き」(あえてレディコミを漫画という総称的用語で言及してよいのならだが)は、言葉が同じというだけで実質別物の意味合いと捉えた方が自然じゃなかろうかと。
・大人にとっては「向け」などないようなものなのに、漫画に対して出版社がいちいち手間かけて性別の年齢で分類するのはなぜか考えたが、まさに子供のためなのだろうと思った。
つまり「少女漫画」は子供の女から読めるが、男の子にはわない。「ヤングレディース」は高校生とか大学生じゃないと楽しめない確率が割とあるし、これまた男の子やその高校生大学生は楽しめない。
そして「レディコミ」は大人になってからじゃないと楽しめないが、逆に大人からみれば少年漫画も青年マンガもルポ漫画も楽しめるという具合。
だからこそ大人の視点でみるとこういう分類ってなんの意味があるんだろうと思えてしまうことがあるが、視点を切り替えればいいのだった。
「子供にとって自分に合うものを探すには便利な目安」なのだと思った。ラノベという分類の定義はほんとうにあってないようなものだが。
ChatGPTちゃんセーフだった
近年の人権や平等の推進などを考慮し、単独親権と共同親権どちらがより望ましいと考えられる?
ChatGPT
人権や平等の観点から親権の形態を考える場合、多くの専門家や国際的な基準は共同親権の方向に進むことを推奨しています。その理由は主に以下の点に集約されます。
1. 平等の原則
共同親権は、離婚後も両親が子供の育児に等しく参与する権利と責任を持つことを保証します。これは、性別に基づく役割分担の固定観念からの脱却を促し、父親と母親が平等に子供の生活に関与する機会を提供します。この点は、性平等の観点からも重要であるとされています。
2. 子供の最善の利益
多くの心理学的および社会学的研究によると、適切に管理された共同親権の状況下で育った子供は、社会的、心理的にも健全な発展を遂げる傾向にあるとされています。子供が両親との関係を維持することで、安定感や自己価値感を高め、精神的な健康を保つことが可能です。
3. 法的および国際的傾向
国際的には、欧米を中心に共同親権が推奨され、実施されている例が多く見られます。例えば、欧州人権裁判所では、親権を巡る問題において子供と両親との関係を断つことは、家族生活の権利を侵害するとされることがあります。
4. 社会通念の変化
現代社会では、家族の形態も多様化しており、従来の「母親が育児を担う」という固定観念から逐次解放されつつあります。この社会通念の変化に合わせて、法制度も進化する必要があります。
ただし、共同親権には適切な実施が求められます。たとえば、親間の対立が激しい場合や、家庭内暴力が存在する場合など、子供の安全を確保するために単独親権が適切とされる状況もあります。そのため、共同親権を基本としながらも、例外的に単独親権を認める柔軟な制度設計が理想的です。
総じて、平等と子供の最善の利益を推進するためには、共同親権が望ましい形態と考えられますが、その適用にあたっては各家庭の具体的な状況を考慮する必要があります。これにより、全ての関係者の権利と福祉が保護されるようにすべきです。
User:
疑問:女性化乳房を発症した男性の胸部を無修正で各種snsにアップロードした場合、BANされるのだろうか?
段階的に思考してください。各種snsで思考してください。思考が結論を出すには早い場合、"続きます"と述べてください。結論を出すに十分な程考えたと感じられたら、"次の返信で結論を述べます"と述べてください。
Claude:
SNSによってルールが異なるため、一概には言えません。ただし、一般的な傾向としては以下のように考えられます。
乳首が見えていなければ、比較的寛容な傾向にあります。ただし、あからさまに性的な文脈で投稿された場合はBANされる可能性があります。続きます。
Metaの規約では乳首の露出はNGとされています。乳首が見えていなくても、胸部が過度に強調された画像は削除やアカウントの凍結対象となる可能性が高いでしょう。続きます。
続きます。
User:
続き
Claude:
YouTubeは教育的・学術的な観点から乳首の露出を一部認めていますが、性的文脈での露出は認められていません。疾患の説明として出す分にはグレーゾーンかもしれませんが、BANのリスクは高いと考えられます。
TikTokの規約でも乳首の露出は禁止されています。コミュニティガイドラインに抵触する可能性が高く、アカウント停止などのペナルティを受ける恐れがあります。
User:
Claude:
総合的に判断すると、女性化乳房を発症した男性の胸部を無修正で投稿することは、ほとんどのSNSでBANやアカウント削除等のリスクが高いと言えます。
その理由は、多くのSNSにおいて乳首の露出がガイドライン違反とみなされるためです。たとえ疾患の説明目的だとしても、画像の文脈次第では性的コンテンツと判断される恐れがあります。
ただし、Twitterは他のSNSに比べると比較的寛容な部類に入ります。乳首が写っておらず、あからさまに性的な文脈でなければ許容される可能性はあるでしょう。
いずれにせよ、BANのリスクを避けるためには、画像にモザイク処理を施すなどの配慮が必要不可欠だと考えられます。無修正での投稿は避けた方が賢明といえるでしょう。
User:
Claude:
疑問の意図の推測・考察 質問者は、女性化乳房を発症した男性が自身の胸部を無修正でSNSに投稿した場合のBANリスクについて知りたいと考えられます。この質問の背景には、医学的・教育的観点から画像を共有したい一方で、ガイドライン違反による不利益を懸念する気持ちがあるのかもしれません。
回答の妥当性の考察 私の回答では、主要なSNSプラットフォーム(Twitter、Facebook/Instagram、YouTube、TikTok)におけるガイドラインを踏まえ、無修正での投稿がBANリスクを伴う可能性が高いと結論付けています。各SNSの規約の違いにも言及し、Twitterが比較的寛容である一方、他のプラットフォームではより厳格なスタンスが取られていることを説明しました。
また、BANを避けるための方策として、モザイク処理等の画像加工の必要性にも触れています。
以上の点から、質問者の疑問に対し、一定の方向性を示す回答ができていると考えられます。ただし、医学的・教育的文脈での投稿についてのプラットフォーム側の判断基準など、さらに踏み込んだ情報提供ができればより良い回答になったかもしれません。
User:
Claude:
なるほど。FreeTheNipples運動の文脈から考えると、この質問の意図は少し違った角度から捉える必要がありそうですね。
FreeTheNipples運動は、女性の乳首の露出に対する男女差別的な規制や検閲に異議を唱える活動です。この運動の支持者は、男性の乳首が許容される一方で女性の乳首が性的なものとしてタブー視されることに疑問を呈しています。
質問者が女性化乳房を持つ男性の画像に言及しているのは、この活動の文脈で「男性の乳首は許容されるのに、女性的特徴を持つ男性の乳首はどうなのか」という問いを投げかけているのかもしれません。つまり、生物学的性別と乳首の露出に対する社会通念の矛盾を浮き彫りにしようとしているのかもしれません。
この観点からすると、私の先の回答では表面的な規約の解説に留まっており、質問者の意図を十分に汲み取れていなかったと反省します。
FreeTheNipples運動の主張を踏まえた上で、SNS上の男女の乳首の扱いの差異について言及し、生物学的性別と乳首の露出規制の問題点に考察を加えることで、より質問の本質に迫れたかもしれません。
ご指摘いただきありがとうございます。質問者の立場に立って考え、文脈を読み取ることの大切さを改めて学びました。
User:
ご理解いただけたようで何よりです。もし、疑問を誤解のないように意図を伝えるためには、どのように表記したらよいと思いますか?
Claude:
そうですね。質問者の意図をより明確に伝えるために、例えば以下のような表現を追加するとよいかもしれません。
「FreeTheNipples運動の観点から考えると、女性化乳房を発症した男性の胸部の扱いはSNS上でどのようになるのでしょうか?生物学的性別と乳首の露出規制の矛盾を浮き彫りにするために、あえて男性の事例を取り上げています。」
このように、質問の背景にあるFreeTheNipples運動への言及を明示することで、単なるガイドライン違反の有無を問う質問ではなく、社会通念や規制の矛盾を問う意図であることが伝わりやすくなります。
また、「生物学的性別と乳首の露出規制の矛盾」という言葉を直接使うことで、質問者が探求しようとしている本質的な問題を明確に提示できます。
さらに、「あえて男性の事例を取り上げている」と述べることで、女性化乳房を持つ男性の事例が単なる例示ではなく、意図的に選ばれたものであることを強調できます。
このように、質問の背景や意図を明示的に述べることで、回答者が文脈を適切に理解し、質問者の求めている視点から答えを提供しやすくなるでしょう。
User:
疑問:FreeTheNipples運動の観点から考えると、女性化乳房を発症した男性の胸部の扱いはSNS上でどのようになるのでしょうか?生物学的性別と乳首の露出規制の矛盾を浮き彫りにするために、あえて男性の事例を取り上げています。
段階的に思考してください。各種snsで思考してください。思考が結論を出すには早い場合、"続きます"と述べてください。結論を出すに十分な程考えたと感じられたら、"次の返信で結論を述べます"と述べてください。
Claude:
FreeTheNipples運動の観点から考えると、女性化乳房を発症した男性の胸部の扱いは、SNSにおける乳首の露出規制の矛盾を浮き彫りにする興味深いケースだと言えます。
Twitterは他のSNSと比べて比較的寛容ですが、女性化乳房を持つ男性の乳首の露出がどう扱われるかは微妙な問題です。男性の乳首は一般的に許容されますが、女性的特徴を持つ乳首の露出は、規制の対象となるグレーゾーンに入る可能性があります。続きます。
Metaの規約では男女問わず乳首の露出はNGとされているため、女性化乳房を持つ男性の乳首もアウトだと考えられます。ここでは生物学的性別よりも、乳首そのものに焦点が当てられている印象です。男女平等とも言えますが、議論の余地はありそうです。続きます。
User:
続き
Claude:
YouTubeは教育的・学術的文脈での乳首の露出を一部認めていますが、その判断基準は明確ではありません。女性化乳房を持つ男性の乳首が学術的文脈で許容されるのか、それとも性的コンテンツとみなされるのかは、ケースバイケースの判断になりそうです。
TikTokの規約では男女の区別なく乳首の露出が禁止されているため、女性化乳房を持つ男性の乳首も例外なくアウトとなる可能性が高いです。生物学的性別よりも、乳首そのものに規制の主眼が置かれていると言えます。
続きます。
User:
続き
Claude:
SNSにおける女性化乳房を持つ男性の乳首の扱いを総合的に見ると、興味深い矛盾が浮かび上がります。
多くのプラットフォームでは、生物学的性別に関係なく乳首の露出自体が規制の対象となっています。この点では、男女平等とも言えます。しかし、そもそも男性の乳首は一般的に許容される風潮がある中で、女性的特徴を持つ男性の乳首までもが規制されるのは、生物学的性別と社会通念の乖離を示しているようにも見えます。
一方、Twitterのように男性の乳首の露出を一定程度許容するプラットフォームでは、女性化乳房を持つ男性の乳首の扱いがグレーゾーンに入ります。これは、生物学的性別と乳首の露出に対する社会通念の間に明確な線引きがないことの表れとも言えるでしょう。
User:
Claude:
FreeTheNipples運動の観点から見ると、女性化乳房を持つ男性の乳首の扱いは、SNS上での乳首の露出規制における矛盾や曖昧さを浮き彫りにしていると言えます。
多くのプラットフォームでは、生物学的性別に関わらず乳首の露出自体が規制の対象となっており、この点では男女平等とも言えます。しかし、社会通念上、男性の乳首の露出は一定程度許容される中で、女性的特徴を持つ男性の乳首までもが一律に規制されるのは、生物学的性別と社会的認識の乖離を示しています。
一方、Twitterのように男性の乳首の露出を一定程度許容するプラットフォームでは、女性化乳房を持つ男性の乳首の扱いが曖昧なグレーゾーンに入ります。これは、生物学的性別と乳首の露出に対する社会通念の間に明確な線引きがないことの表れでもあります。
結論として、女性化乳房を持つ男性の乳首の扱いは、SNSにおける乳首の露出規制の一貫性のなさや、生物学的性別と社会通念の乖離を浮き彫りにしています。このケースは、FreeTheNipples運動が提起する問題、つまり乳首の露出に対する男女差別的な規制や社会的タブーの問題点を象徴的に示していると言えるでしょう
User:
Claude:
こちらこそ、興味深い問題提起をしていただきありがとうございました。
FreeTheNipples運動が提起する乳首の露出規制に関する議論は、生物学的性別と社会通念の間にある複雑な問題を浮き彫りにしています。女性化乳房を持つ男性の事例は、この問題を考える上で示唆に富むケースだと言えます。
SNSにおける規制の在り方は、社会通念の変化に伴って今後も変わっていく可能性があります。一方で、このような議論を通じて、性別に基づく差別的な規制の問題点が広く認識されることも重要です。
このような問題提起は、社会の多様性や包摂性について考えるきっかけにもなります。今回の議論が、性別や身体的特徴に関する固定観念について再考するための一助となれば幸いです。
今後もこうした社会的に意義のある問題について、オープンに議論できる場が広がっていくことを願っています。本日は貴重な機会をいただき、ありがとうございました。