はてなキーワード: ミュージシャンとは
ライブハウスにて。
先日、近くのライブハウスにて大好きなバンドのライブがあった。
とても好きなバンドで、まさか地元で観られるとは!とライブ情報を知った日からワクワクしていた。
チケットだって発売日、発売開始時間に購入。
整理番号はまさかの一桁台。
うおおおおおおお!
テンションがあがった。
もしや、一番前で観られるのか!
オールスタンディング形式のライブのいいところは(基本的に)「自分の好きなところで観られる」ことだ。
見えにくければ移動すればいいし、前のほうが空いていればそこに行けばいい。
ビール片手に見るもよし、場所によってはライブ中すら喫煙OKなところもある。
それがライブハウスだ。
整理番号は一桁だったが、それでも楽しみで楽しみでしかたなかったので、
ライブ会場にも早めに出掛けて並んでいた。
そのおかげもあってか、ライブ会場では難なく最前列を陣取ることが出来た。
ところで僕はそこそこ背が高い。180cmくらいある。
一応後ろの人の気を遣って、最前列でも一番端に陣取った。
端だとあんまり視線を遮らないだろう、と思ったからだ。
そしてなるべく最前列のゲージにもたれかかるようにした。
180cmある身長をなるべく低くすることで邪魔にならないようにするためだ。
ひざだって少し曲げている。
どれだけ声援はあげても、煽られない限りは腕を挙げず、
でもミュージシャンに盛り上がってないと思われるとアレだから、
なるべく歌い、なるべく笑顔で、なるべく体を揺らして。
僕は背が高い。
でも、耳と腰と膝に痛みを感じながら、後ろのことを気にしつつ、
それでも払った分は楽しむ権利はあるはずなんだ。
後方から「見えなーい」という女性の声が聞こえてきた。
座席指定の公会堂ならともかく、
ライブハウスで何言ってんだ、と思った。
見えないんだったら人垣をかき分けろよ。
もっと早く来い、もっと早い番号を取る努力をしろ。
こっちだって気を遣ってんだからさ。
ライブはほんとに最高だった。
僕よりずっと年上なのに、その熱量は僕らを圧倒し、
何よりその会場にいた全ての人に笑顔と感動をもたらしてくれた。
ファンを掻き分け、隅にいるファンにまで興奮を届け、
全てを出し切ってライブは終了した。
彼らの名前は、曽我部恵一BAND。
来てくれて、どうもありがとう。
著作権はあくまで権利の話しであって、世間で問題視されるのはあくまでその権利の行使のやりかた。
今のような方向性で権利が行使がされつづけると面白いコンテンツを生み出すそもそもの土壌がなくなる。
既存の作品というのは製作者の成長の過程において基礎となり重大な影響を与えている。
もし小説家の卵が明治時代に活躍した文豪の作品しか模倣できなかったら。
模倣という練習の先に独自のスタイルを織り交ぜるのであって、
それなしに著作者権利を行使したのでは、すべてのクリエイターが車輪の再発明を強いることになる。
想像してみてほしい。
作者没後70年というのは、1937年、昭和12年に死亡した人ということだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/1937%E5%B9%B4
1870-1890に生まれた人達。彼らが作品を生み出したのが20、30台だとしよう。
もし、厳格に著作権が管理されたら、
ポケモンの歌をくちずさみながらピカチューの絵を描く子供達は、
著作物使用料を支払わなければならない。
文化祭で学生が演奏を披露する子達はラベルのボレロ以前の作品をコピーすることになる。
フェアユースが認められていない以上、インターネットは脱法状態だし、ポケットはてななんてもっての他。
そんな状態で生産性が問えるだろうか?
著作権は主に二つに分解することができる。
誰がどのような作をなしたのかは厳格に保護される必要がある。
すべての作り手はマルパクリから第一歩を踏み出すのだ。
第一歩ぐらい最近のものから模倣したいじゃないか。
っていうか、そもそもプログラムには著作権認められないという。
どういうことやっちゅう話しじゃ。
実行結果はほとんど同じでも書き方は千差万別。
もう、ほんとなんなんだよと思ってしまう。
古川さんの話。
彼を老人だと認識している人だと「老害が」と思うんだろうけど、20代の若者だって「Googleに会社売って金持ちになるのが夢」って言われたらフザケンなって思う人もいるよね。
「なんでもいいから社長になりたい」って言ってなった人達は会社を作る前から「より大きい会社に買収してもらおう」と思って成功したの?
「会社作ってなんか凄いもの開発して世界のスタンダードになって金持ちになる」とか「俺にはアイディアがないので、アイディアのある連中を助ける投資会社を作って金持ちになる」っていうならともかく、最初から売却目当てってそこが鼻につくんだろうな。それにGoogle舐め過ぎ。
ミュージシャンになりたいといいながら、特に練習もしないで、ステージ上でかっこ良くスポットライトを浴びてる姿だけを妄想している中学生みたいだ。
一方、スガシカオは無目的な貯蓄を有効に使ってミュージシャンになった。
しかし、100万ちょっとでこんな行動に出られるのはすごいな。
妻は料理や食べることが好きで、食べるものの味全般に敏感。
「もうちょっと塩が多いといいかも」とか細かい評価をできる舌を持ってる。
夫の舌は超アバウト。外食も含めて、食事の評価の割合はこんな感じ。
夫が自分から「こりゃうまいね!」と言うのは年に数回。「まずいね」クラスに達するにはジャイアンシチューレベルが必要。
そういう夫が妻の料理を食べて、「どう、おいしい?」と聞かれる。
正直に答えると、たいていは「普通」。
妻としては、「そう言われても」だよね。そうでしょうそうでしょう。
でも夫の舌は、味の評価のためのリファレンスを持ってないんですよ。
好みのミュージシャンとか特にいなくて、聴いた音楽の好みやよしあしを感じない人、いるでしょう。
どの映画を見ても「面白かった」「つまんなかった」くらいしか感想が出てこない人、いるでしょう。
音楽や映画をある程度きちんと評価できるようになるには、それらを自覚的にたくさん摂取しないといけない。
でもそもそも興味が少なかったら、なにもそこまでって思っちゃう。
食事に対する夫の興味が低めだから、評価できるようになろうという気が少ないのね。
そういう夫の性癖は妻も知ってるけれど、やっぱり「おいしい/もうちょっと」くらいは言ってほしいよね。
今は「普通」を細分化して「上」「中」「下」くらいは枠を作れるよう、味を気にしながら食べてます。
食事の評価を共有できるようになれば、お互い嬉しいですからね。
私は作家なのだが、作家という職業について日ごろ感じていることを書いてみようと思う。
誰にも何も教えてないのに「先生」と呼ばれるのにもそれが現れているし、職業を言うと「すごいんですね」みたいな反応(まぁ、そんな奴は誰にでもそうしてるのかもな)。
エッセイストとかいう肩書きの人間が文化人・知識人として扱われているのを何度となく見た。
ワイドショーでコメンテーターをやりだしたりするともう最悪で、まるで第一人者かのようにしたり顔でコメントしては馬鹿面をさらけだしている。
君たちが知識人面して出ることによって、本当に知識をもっている専門家が発言の機会を失い、実のある提言が出てこない状況になるということがわからないのか。
まさか自分が専門家であるなんては思ってはいないだろうね?
君たちは学者じゃないのだよ! 文章で飯を食っているというだけなんだ! 黒いシミのついた紙の束を売りつけているような人間が奢るんじゃない。
中高生のいじめ自殺についてこれ以上偉そうに何か言うんなら、私が君たちを虐めてあげるのでさっさと自殺してください。
さらに思うことは、学生時代の同窓生に再開した際に、作家をやっていると言うと羨ましがられることがよくある(単なる社交辞令か?)。
私は学生時代から「作家になりたい」と口にしていたから、夢を叶えた人間に見えるのだろう。
好きなことを職業にして、時間を自由に使えるのは羨ましく見えるかもしれない。
だが、ミュージシャンなどのほかの職業はわからないが、作家は全く羨ましがるような職業じゃないと断言できる。
年収300万で、その後について何にも保証が無い生活(もちろん、たくさん稼いでいる人もいる。中村うさぎなんて、糞女のグロテスクなプライベートを書き連ねているだけなのに、年収は何倍も上だ。ちなみに自慢にもならないが、私は中村うさぎに言い寄られたことがある。自身が前に着ていたお古の服をプレゼントしてきた。よくわからん)
雑誌連載だっていつ打ち切られるかわからないし、急に雑誌自体なくなることだってある。
たった一行書くのに半日苦しんだり、締め切り前に精神が壊れたりする割には、快感なんて書店に並んでいる自分の本を眺めるか、好意的な感想を読むことくらい。
インターネットで自分の名前を検索でもしたら、もう大変で、落ち込む材料がそこら中に転がっている。
私は自分を誉めている文章をネットで見つける度にブックマークして何度となく読み返し、精神を安定させている。
「作家になりたい」という人間がいたら「やめなさい」と私は忠告するだろう。
作家、ミュージシャン、アーティスト、呼び名はなんでもいいけど、
自分がハマりこんだ人が時を経るにつれて初期衝動を失ったり、作風が変化したりして興味の中心から去っていくのはよくあること。
だから、創造性のピークに到達した人を見て、できればあんまり変わってほしくないなーと思うこともよくある。
変わっていくこと自体は責めることではないけど、実は初期作品がピークだという人も山ほどいる。
個人的には、そういう人のために「殿堂入り」というシステムがあるんだと思う。
パブリシティーや露出が作品そのものよりも目立つようになったら、大抵そういう状態だと思っていい。
TV番組の司会をする小説家とか、対談ばっかりしてるミュージシャンとかね。
このプロセスは多分不可逆的なもので、それまで食うに食えなかった人も多いだろうから別に責められるべきことではないし、
初期作品が自分に与えた感動が薄れるわけではないので、そういう人たちに対しては、
「いままでありがとう。これからもお元気で。さようなら」と思うようにしている。
元増田の人は作家「さん」て書いたりしてるから多分出版業界の人なんだと思うけど、
もしそうだとしたら、自分がそういうプロセスの一部だということにもう少し自覚的であってほしい。
そうしたら、もう少し多くの表現者たちがその創造性を延命させることができるかもしれないし、
より多くの消費者を喜ばせることにつながるかもしれない、と思うから。
うひぃ、気持ちが分かりすぎてたまらん。
思うんだけど最近の日本人って割と以前より中高の時に反抗期が来ていない気がする。
今なんかネットもあるから更にそう。子供が変に大人になってる。カッコワルイことをしなくなってる。子供らしい幼稚さを見せなくなってる。
変に賢い子ぶってしまうというか。反抗期ってのは「畜生、大人なんて…いい子ぶってるのなんてカッコワルイぜ」的なところからくるもんだけど、「思春期っていうのは皆そういう反抗期があるものなんですよ」というのが子供にまで広まっちゃったから、今度は逆に「ガキみたいに大人に反抗するの、カッコワルイぜ」的な子が増えた気がする。無論、まだまだ模範的思春期を迎える子もいるが……。基本的にあの年代って天邪鬼な奴多いからな。俺もそうだったんだけど。
それで「親に反抗したってしょうがないじゃん」「ミュージシャン?そんなんよっぽど才能と運がなきゃなれんっしょw」「しょうがないよ。今の日本終わってるから」みたいに分かってる風に構えてみる。でも多分、それは一種のかっこつけで、心の奥底では色々煮えたぎってるものがあったりする。でもそういうのをさらけ出すのって「カッコワルイ」から、気取って中高をすごして、……それから大学や社会人になってようやくそういう素直な思いをさらけ出すようになる。
まあ、それだけじゃないんだろうけど。
ともあれその気持ちはすっごくよくわかる
アドバイスはできないけど
「平凡な人生が一番いいんだよ」なんて言うけど、その人は突然金持ちになったとしてもそんな事が言えるのだろうか。「平凡が一番さ」というのは、分かる面もあるんだけど、どうしても「平凡にしか生きられないから、平凡が一番いいんだって思い込もうとしているだけなんじゃないのか?」って思えてしまう。だって、数多の選択肢から平凡な人生を選び取ったわけじゃない。最初からこれしかなかったのだから、これが良くないとなるとほとんどの人に絶望が訪れる事になる。だからこういうお茶を濁すような言葉が昔から語り継がれているだけなんじゃないかって……平凡な人生が一番いいんだなんていう人はそもそも、平凡以外の人生を歩んだ事があるのかよ?って……思ってしまう。俺もかなり遅れて中二病がきたようだ。
思い込みも度を過ぎれば大きな力となる。
ちょっと楽しかっただけで、「楽しい」と思い込める奴。こいつは普通の人がつまらない時間でも楽しむことが出来る。これは幸せなことである。
趣味に対して、「これは面白い」と思い込める奴。仕事はともかくとして趣味の時間を幸せに過ごすことが出来る。
仕事に対して、「今は我慢して勉強しながら働ければ、社長になれる」と思い込む奴。このような意識を持たない人間よりも、遥かに出世や独立の可能性は高まるだろう。
ブサイクな彼女を「こいつはなんていい女だ」と思い込める奴。ブサイクな分、他人から取られる心配もなく、本人が望む「良い女」を独り占め出来て幸せである。
ただ一歩間違うと不幸せにもなりかねない。
親に「勉強出来れば幸せな人生後れるのよ」という言葉を信じ込んで勉強ばかりしていた奴。こいつは良い大学に入れる。しかし、その後の人生は保障出来ない。
「歌がうまいね」と褒められて、調子に乗ってミュージシャンを目指した奴。
ホストクラブで褒められて良い気になっている奴。ホストクラブにハマって大量の借金を作ってしまうかもしれない。
”思い込みの選択”を誤れば、このような結果になることもありうるため、充分な注意が必要である。
貴方の”思い込みの選択”は間違っていませんか?