はてなキーワード: 長所とは
ネットだと散々ネタ扱いされているけれども、新條まゆという作家は侮れない。読者のニーズや流行を一歩も二歩も早く察知する探究心と、サービス精神は赤松健クラスじゃないかと思う。そして思春期女子を問答無用で黙らせる力技は並じゃない。強引男によるエロという様式だけ真似た「まゆたんチルドレン」とは格が違う。彼女の作品を俺たちが理解できないのは当然だ。新條まゆは特定の読者層を極めて正確に狙い撃ちしているのだ。一般女子が「ToLOVEる」を読んでも全く面白くないようなもんだ。
「バカでも描けるまんが教室」という新條まゆの技術書というか自叙伝があるが、これを読むと彼女がいかに自分の長所と短所を正確に把握し、「それまでの少コミにないジャンル」を開拓したかが分かる。最初からエロだったわけではないのだ。新條まゆははじめから「それまでの少コミにないジャンル」を描かなくてはいけない、と言っている。新條まゆ作品は雑誌にとって異端でなくてはならない存在だったのだ。
ところが、新條まゆの作り出した新ジャンルには、たくさんの「まゆたんチルドレン」がむらがった。とにかく強引男、そしてエロであればいいというような作品が増え、従来の少コミ作家が肩身の狭い思いをするようになってしまった。結果、新條まゆは少コミが性コミ化した戦犯扱いとなってしまったのだが、この場合、本当の戦犯は編集部だろう。
一方、雑誌がそんなことになってしまったのをよそに、異端でいたい新條まゆ本人は、(少コミにしては)ほとんどエロのない男子校の姫×女子校の王子様のラブコメなんて描きはじめてしまう。しかも心底楽しそうに。エロ鬼畜セレブ男子×没個性一般女子を描かせたかった小学館は相当焦ったと思う。エロ少女漫画の旗頭がそれでは…といったところだろう。そのあたりのいざこざが小学館との決別につながったんじゃないかと俺は勝手に想像しているんだが。
新條まゆは自らの手でムーブメントを引き寄せることの出来る作家だ。そして、世間が追いついたころにはすでに次の段階にいる。トンデモ台詞やオモシロポーズに騙されてはいけない。彼女の真価は既にそんなところには存在しない。新條まゆは、天然と計算が絶妙にミックスされたニュータイプなのだから。
もしかしたらお前にキツい事言うハメになるかもしれないけど…
それは要するにさ。「生理的にダメ」っていっても、それは本当に「靴下が白なだけで嫌だ」じゃなくて、正確に言うと「靴下が白なだけで嫌だ、とこいつを切り捨てたとしても、どうせそれでも構わない、そんな程度の魅力しかこいつはそもそもない」って事なんだと思うよ。靴下が白だけど、でも超イケメンだとか何かしら凄い長所があるなら、多分そうはならない。なんていうか、嫌な言い方するけどさ、そもそもが、(少なくともその人にとって)そこら辺に掃いて捨てるほどいそうな平凡な人だったら、その人を切り捨てる理由は、どんな些細な事だって構わないわけじゃん。だって、代わりなんていくらでもいるからさ。それだったら、自分の嫌な「白い靴下はいてる」っていうポイントを我慢してまでその人を保留にしておく理由がないわけ。逆に。
例えば目の前に同じようなギャル(ギャルじゃなくてもいいけど、自分がさして興味を抱かない層の人たち)が一杯いて、誰かとデートしなきゃいけないとなったとする。どうせ全員とは付き合わないし、どうせギャルってもともとそんなに好きじゃないし皆同じような格好しててどう違うのかわかんね、ってな感じだったらさ。とりあえず「なんとなく直感的に嫌だ」ってとこから切り捨てるだろ。例えば何か髪型が好きじゃない。靴が汚い。とか。だってもうどうせ誰でもいいからさ。そんなにいちいちじっくり検証して選ぶほどの事でもないわけだし。それなら、少なくとも直感的に、生理的に嫌な奴はとりあえず避けておこう、どうせ、同じような奴がまだ一杯いるんだから。……んな感じ、分からん?多分、女の子の「生理的に嫌だ」ってのはそんな感覚なんだと思うよ。そもそも「生理的に嫌だ」って言われる人のレベルがさ、その子にとって、「生理的に嫌だというレベルの理由で切り捨てちゃっても、もともと構わないようなどうでもいい人」なんだよ。悲しいけどさ。もともとどうでもいいようなレベルだから、生理的に嫌、靴下が嫌、そんな感覚で切り捨てちゃえるわけだ。
あるいは、ただ単に、「スーツに白い靴下」というのが、君は軽視しているけど、それを指摘した子にとっては重大な事なのだろう。「それくらいのことで避けていたら…」というけど、君だってさ、フケだらけで風呂に三週間入ってませんなんて人はもうそれだけでオコトワリだろ?俺はオコトワリだよwでもそんな俺を誰かが、「フケだらけで風呂に入ってないって程度の理由で、人を簡単に切り捨てちゃえるの?」なんて、言うかもしれないわけで。要するに価値観の問題。スーツに白い靴下がダメな子でも、フケだらけの人は別にいい、と感じるかもしれない。これは全然大袈裟な話じゃなくて、結構、人の価値観ってそれほど大幅に違うから。現に俺の知り合いの女子には、ファッションセンスがダメな奴は絶対に無理だが、汚いってだけなら別にいい、という人もいた。君は「スーツに白い靴下程度で」って思うけど、彼女にとっては「そんな程度で」の話じゃなく、「有り得ない、こんなセンス」ってドン引きしちゃったのかもしれない、と。
それに「白い靴下程度で」っていうけど、なんだかんだ君も、「生理的にダメ」って言われたくらいでそこまで憤慨してるわけだろう?価値観ってさ、色々だよね。本当。
http://anond.hatelabo.jp/20070918011228
このエントリでは「聞き上手」ということばに集約されてる様子だけど、要するに「包容力」とか「安心感」とか、そういうのを提供できる人は結婚相手として異性に意識されやすいということなのだろうと思う。
同性からはよく「聞き上手」だと言われるけれど、異性からそのことばを聞いたことはほとんどないように思う…。
ひとのせいにするのはよくないのだろうけど、うちの父親はわたしが小さい頃からほんとにいろんな意味でしょうもない人で、わたしは父親のことを常に反面教師として冷ややかに見つめていた。
親しくなった男性にも、父親と同種の男特有の短所が見えた瞬間、理屈も何も抜きでものすごい勢いで冷めてしまう。
そして、その人に対する軽蔑の念が生まれてしまう。
いかんいかん、長所もちゃんと見なきゃ。
男の人を上手に立てられるようにならなきゃ。
いい女ってのは、みんなそうして男の人と仲良く付き合っていくんだから。
いくらそう自分に言い聞かせても、一度芽生えた軽蔑の念は簡単に消えるものでもなく、そうなってくると短所ばかりが目に付いてイライラが募る。
立てることなんて、とてもできない。
それで、おしまいになってしまう。
このエントリのような話を見聞きすると、すごくコンプレックスを感じる。
わたしは今のところ、そんなに結婚願望はないのだけど、いずれはしたいと思ってるし、でも、やっぱりできないのかなぁ…とか。
今付き合ってる人は、性格には何も問題ない。
やさしくて、温和で、知的で、「聞き上手」で。
でもね、定職に就いてないんです。
わたしには常にやさしくていい人なんだけど、社会的にはいろんな不適応があって、それで、定職に就けていない。
軽蔑とかイライラを感じない相手っていうのはこれが初めてなんだけど、でも、彼は定職に就いていません。
やっぱり、結婚できないのかなぁ、わたし…。
「フツーの人」と「フツー」に結婚することを漠然と夢見ていたけれど、「フツー」って難しいよなぁ…。
心底それに困ってたら行動してると思うよ。
俺は気の弱い人間だった。
自分でも自覚していたけど、それが自分の性格なら仕方ないと諦めてた。今思うに、それが個性であり、その弱さは長所で見れば人に優しいことに繋がるんだからよしとしていた部分と、性格をかえて被害があるくらいなら(人を傷つけて自分が傷つくのは俺にとってさけたい事象だった)このままでいいやって部分があったんだろうと思う。
転機は今の伴侶と付き合い始めたことだった。
ある日、自宅に宗教勧誘が来て延々演説をしていった。恥ずかしいことだがそれに当てられて俺は酷く気分がうつうつとした。何食わぬ顔で時間通りデートの待ち合わせ場所に行ったら相手が第一声で「何かあったの?」と言った。軽く事情を説明して、ちょっとめいってるだけだからと言った。
彼女は怒ってる顔だった。俺は「宗教勧誘してる人にも何か事情があるんだろうから」とよく分からないフォローを入れた。「違う。私が怒ってるのは、あなたに対してだよ」面食らった。
「前からそういうとこがあるなとは思ってたけど、自分の感情がうまく処理できないくらい相手に譲歩してどうするの? あなたが苦しんでいたら、私も苦しい。あなたには私をとっくに巻き込んでいるんだって自覚してほしいよ」
鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
俺が俺のせいで苦しむのは俺の勝手だが、彼女まで苦しめるのは本意ではないし嫌だ。気が弱いは免罪符にならない。
それから徐々に嫌なことは嫌だと主張できるようになった。人通りの少ない道で狙ったように宗教勧誘されやすい体質は相変わらずで、相手が話しかけるまえに断るたびにずきんと胸は痛むが、今では伴侶となった彼女を巻き込むくらいだったら平気だ。
以上で経験談終わり。
変わりたいと思えるきっかけがあれば人は変わるよ。自分を信じたらいい。
生まれてから一度も恋をしたことがなかった。
だから、人を好きになる、という気持ちがどうにも理解できない。もちろん、それは異性に対する話であって、同性の友人達を大切に思える感情くらいはある。ただ、友人達を好きだ、というふうに感じるものと、たったひとり、誰か特別な人を好きだ、と感じるのとでは、そこには大きな違いがあるのだろう。
まだ高校生だった頃、友人とのおしゃべりの話題といえば、恋愛の話が大きくウェイトを占めていた。彼女達は、どこどこのクラスのだれだれが格好いいとか、どこどこの部活の先輩は、だれだれと付き合っているだとか、そういう話を好んでする。わたしはそういった話題が苦手だった。やっぱり、追随できない。わたしにだって、素敵な男の子を見れば、そのひとをカッコいいと思うことくらいはある。それくらいの感性は誰だって持ち合わせているだろう。けれど、やっぱり、カッコいい、と思うところで終わってしまう。それ以上先に気持ちが動かないのだ。好き、というレベルまで、感情が揺れ動くということがない。
好きって、どういう気持ちなんだろう。それは、とても甘いものなのだろうか。とても優しい胸の高鳴りなのだろうか。
そんな中で、友人達に恋人ができはじめると、自然とわたしは焦るようになっていく。好きな人と付き合って、買い物をして、映画を見て、笑ったり、喧嘩をして。みんなはとても楽しそう。幸せそうだ。けれど、わたしにはそれがない。なんだか、ひとり取り残されてしまったようで、ひどく辛かった。もしかしたら、わたしは一生このままなのかもしれないとさえ思えた。誰かを好きになることもなく、ずっとずっとひとりで過ごしていくのかもしれない。
わたしは自分に自信がある方ではない。性格が良いとは思えないし、容姿がいい方ではなかったから。成績だってごく普通。これといった夢も持っていない。どこにでもいるような、つまらない人間だった。だから、わたしが誰かを好きになることがないように、誰かがわたしを好きになることはないだろうと考えていた。
教室の窓際の席で、毎日溜息を漏らす。気づけば、曇った空を眺めている。そんな毎日だった。そんなわたしを見かねてか、ある日、友人が、どうしたの、と声を掛けてきた。
「なんだか寂しそう」
黒澤さんというその子は、クラスの中でいちばん大人びていて、柔らかな笑顔が魅力的な子だった。年は同じなのに、彼女と会話をするとき、わたしはいつも、まるで先輩や年上の人と会話をしているような気分になる。不思議な子だった。
帰りに喫茶店に寄って行こう、と彼女に誘われた。わたしはそんなに寂しげに見えるのだろうかと、歩きながら考えた。
わたしは寂しいのだろうか。
寂しいと思ったことなんてなかった。家族にも友人にも恵まれていた。けれど、わたしの表情は、きっと、寂しいものなのだろう。喫茶店の窓ガラスに映る自分の顔を見ていると、なんとなくそう思える。
黒澤さんは聞き上手なのだろう。彼女と話をしていると、黙っているべきことや、些細な事柄ですら、なんだか話したくなってしまう。心の中に溜まっている淀みや晴れない鬱憤を吐き出したくなる。話を聞いて貰えるひとが目の前にいることは、ささやかな幸せに思える。わたしは、人を好きになったことがない、という話を彼女に零した。
「どうしたらいいと思う?」
「どうにかしなくちゃいけないの?」
「だって……」
「人を好きにならないといけない。そんなルールはどこにもないでしょう。それはそれで、別にいいと思う。そもそも、誰かを好きになるって、無理を通してまでして得る感情じゃないでしょう。そうやって人を好きになっても、それは相手に失礼なんじゃないかな」
「そうかな……」
「周りのみんなが色恋沙汰に夢中になって、取り残されていく気分はわかるけれど。そういう流行というか、流れみたいのに乗りたくて人を好きになりたいっていうのは恋の本来の目的とズレてるよ」
「それは、そうだけど」
けれど、わたしは納得できなかった。周囲の子たちのことなんてどうでもいい。わたしはただ、このままひとりでいるのが怖かった。それがいちばん強い気持ちだった。
「恋ってね、女にとっては一世一代の大勝負なんだから。少し古臭い考えだと思うけど」黒澤さんはちょっと笑った。「人を好きになることに、余計な考えが混じっていたら、それは駄目」
「寂しいから、人を好きになりたい、というのも、駄目ってこと?」
彼女は微笑んで頷いた。わたしは少し、俯く。なら、どうしたらこの寂しさ、いいようもない不安から逃れられるのだろうと考えた。
「人を好きになりたいのなら、自分を好きになりなさい」彼女はコーヒーのカップを口元に運びながら言う。「誰かを愛することって、自分を愛することなんだよ。自分のことを好きになれないのに、どうして他人のことを好きになれるのかしら? もっと、胸を張って、顎を上げて、視線をまっすぐ伸ばして、生きていくの。自分を愛して、好きになる。それが恋のはじまりなんだから」
俯いていたわたしは、少しだけ眼をあげて黒澤さんを見る。彼女は少し意地悪そうにわたしを睨んでいた。
その視線が、胸を張って、顎を上げて、自信を持て、と言っている。
自分のことを、好きになる。
それは、自信を持て、ということだろうか。
「まずは自分に恋をするの。自分を愛して、自分を好きになっていく。そうすると、どんどん他の人のいいところが見えて、世界が変わってくる。そうして、どんどん、他人が好きになっていく。もっとね、ナルシストに生きるべきなのよ、人間は」
それから、三年が経った。もちろん、こんなわたしだから、すぐに自分を好きになるなんて無理だった。可愛げもないし、勉強だってできないし、困難な壁には、すぐに挫けそうになる。
だから、せめて、自分を好きになろうと努力した。可愛い服を探して、化粧のテクニックを身につけて、髪型を変えて。たくさん勉強をして。すぐにあきらめないで、本当に倒れるまで、歩き続けるように。
嫌いなところを、一つ一つ、消しゴムでこするように、磨いていく。
あれから、三回、恋をした。もちろん、失恋もした。最初の一回は、男の子に告白をされたからだった。別に、その子のことが好きだったわけではないのだけれど、わたしは彼の言葉になんとなく頷いた。今では、それでよかったと思っている。
そうして彼と付き合っていく内に、わたしは彼の良いところに気づく。悪いところにも気づく。自分の長所と欠点を知るように。そうして、新たな発見をする度に、まるで長所を伸ばした自分を褒めてあげたくなるような気持ちに似て、彼を好きになる。
良いところも、悪いところも。
すべてを含めて、どんどん知って、それがなんだか自分のことのようにも感じて、そしてそれらを愛しく思う。
ああ、人を好きになるって、こういう気持ちなんだと、初めて知った。
人を好きになるって、知ることなんだ。その人の気持ちを、考えを、意見を、癖を、どんどん知って、胸いっぱいに吸収していくことなんだ。それは、決して受動的な感情ではなくて、とてもアクティブな想い。その人を知ろうとする。最後まで知り続けようとする。それが「好き」ということなのだ。
あれから、黒澤さんとこんな話をした。
「恋愛って、要するに試用期間なんだよ。試しに付き合ってみて、相手の良いところが見えたら、そこを好きになって、そうして愛していく。もしかしたら、お互い合わなくて、好きにはなれないかもしれない。そうしたら、試用期間は終了。次の恋へ、って感じに。ものは試しじゃないけれど、結局、人間の良いところって、実際に触れあわなければわからないんだよね。だから、何度も何度も、試用してみる。それが大事」
「黒澤さん、前に、恋愛は一世一代の大勝負って言ってたじゃないですか」
「そう。試用だからといって、手は抜かない。毎回が大勝負なんだよ」
今、わたしは鏡を見ている。唇にピンクの紅を引いて、ほんの少し微笑んで、自分の顔を見詰める。
今、わたしには好きな人がいる。愛している人がいる。
それと同時に、わたしはたまらなく、自分が好きだ。自分を、人を愛する気持ちを、誇りに思う。
それはきっと、恋が授けてくれた、唯一無二の自信なのだろうから。
*
ついでに言うと、主題というかネタは増田を眺めてて思いついた。また、書いたことと中の人の恋愛観は違う。
ブクマしてくれる人が地味に増えて、少しうれしい。増田はいいところだなぁ。
ブクマしてくれる人がいる限り、書き続けよう(とかいってネタ切れしそう/してくれるひとがいなくなる罠)。
追記
↑が、ブクマ狙いっぽく捉えられてしまうことに気付いた/指摘された。今では後悔している。
意図としては、「気に入ってくれた人が一人でもいるなら、書く気力が湧いてうれしい」というだけだ。
今では後悔している。
「何でも楽しく思える」ってのはやっぱり長所にしか思えない。
http://anond.hatelabo.jp/20070823233243
自分もそう。何でも楽しいと思える。だけど、それが良いことだとはとても思えない。だって、何でも楽しくて1つのことに集中できないから。
例えば勉強。高校までは苦労しなかったが、大学に入ってからがしんどかった。
本当は研究者になりたかった。だがやりたい研究テーマが決められなかった。どれも面白そうに見えたから。研究テーマは二転三転、気付けば最終学年だった。結局研究者の道をあきらめ、就職することになった。研究テーマを早々に決め、一年のときからずっと1つのことを研究し続けてきた友人は、卒論を学会誌に提出する。
就職面接では苦労した。エントリーシートには「これだけは人に負けないと言えるものは?」「大学時代夢中になったことは?」・・・・無い。色んなことをやってきたから経験値には自信がある。でも、1つに絞れない。あれもやった、これもやったでは面接官の印象に残らなかった。面接ではことごとく落ちた。いわゆる一流大学にいるのに、こんなに就職で苦労するとは思わなかった。ゼネラリスト志向のマスコミ業界に志望を変更し、なんとかひっかかった。
知識が浅く広いから、飲み会でも話題には事欠かない。だがキャラが立たない。そつの無い人で終わってしまう。1つの分野でいいから、夢中になれる趣味がほしい。あの人といえば○○、という個性が欲しい。
でも結構、ネガ(もじもじ・小心)系人間も一回モテちゃったりすると考え変わる奴多いんじゃないかな。特に男は笑
一般的じゃないって言うけど、世の中的には充分一般的じゃないかなぁ?
てかね。
はてなに限らず、濃いめのネット界隈でこの人面白いな〜かしこいな〜とか思う人一杯いるけど、
やっぱ偏りあるんだよね。そこが残念なんだよなぁ。
「よくモテない人が自分の真面目さ・慎重さみたいのを長所だと思って書いてる文章」って言いたいこと俺は良く分かったよ。
そういう人もいたって良いけどね。ナイーブなのも悪いことじゃないけどね。
でも君がモジモジしてても別に損するだけで、世の中はちっとも良くならないよっとも思うね笑
で本題だけど、男は着けないのが良いに決まってるんだけどさ(女性でもそういう人いるけど)。
ある程度長く付き合うと、着けたり着けなかったりつう感じにならないかな?
それはまあアウンの呼吸つうか、なんつうか。空気読むってゆうか。
惚れさせるとか、なんとなくそうなるとか、お許しをいただくとか色々ありますけど。
大事な女なら無理強いはしないよな。パワーバランスの問題でもあるよね。
自分、結構ぐるぐる考えちゃうタイプの増田だけど、セックスの相手としては、いや一生のパートナーとしても、後先考えないタイプの方がいいなあ。その方が生物として健全な気がするし一緒にいて癒されるよ。考えちゃう人間同士だとネガティブフィードバックかかるよ。
よくモテない人が自分の真面目さ・慎重さみたいのを長所だと思って書いてる文章あるじゃん?あれ、こと恋愛に関しては全然長所だと思わないけどなあ。もともと考えちゃうタイプの人は、馬鹿に見せるくらいのつもりでのぞんで丁度いいのに。
こんな意見が出たので追記。
上で言及した「モテない人が自分の真面目さ・慎重さみたいのを長所だと思って書いてる文章」で想定してたのは「殴らぬオタより殴るDQN」かな。恋愛をしたいのが前提で、恋愛というステージにおいて俺の真面目さを評価しろって文脈の文章のことね。それ以外のステージでは真面目さは有効だと思うよ。
いいハナシだなあ。
一見長所をあげているように見えるけど、よく読むとオタク男子が普遍的に持っている弱点ともなる特性を述べているに過ぎないので、これは対象のオトコ云々ではなく元増田がデキた目を持っているということだとおもう。
減点法でみたらダメダメなトコを、加点法でみてくれている的な。増えろナイス男女。
あと、本当はそう思ってなかったり、服飾の知識がないのに無理に「誉めよう」とするとボロが出るので、
服装とか髪型とかは、誉めるまでもなく「気が付いてますよ」ってアッピールするだけでモテ度は違ってくると思う。
要は下心で誉めないことだオタク仲間よ。
を俺から見た限りなんの取り柄もない大人がしていたのだが。
彼の発言の要旨はこう
「誰にだってひとつくらい取り柄はある。勉強が出来なくてもスポーツが出来なくても音楽の才能があるかもしれない。そういうものを見つけて個性を尊重することが大切である」と
うーん。それは絶対に嘘だよなあ。。。たしかにだいたいの人には何かしらの長所はあるものだけど
世の中には美形で頭の回転が早いスポーツ選手がいるのと同じように
本当に何ももっていない人もいるよなあ。俺にはネットがあるけどさ。
そもそも一つだけ取り柄があるにしても、その取り柄がアニメに詳しいとかだったら実質意味無いでしょ。
アニメーターになれば良いのか。それは安直すぎるだろ。
本当に何も持ってない人は首を吊って死ぬべきなのでしょうか。
発言がしやすいというのは、匿名空間の最大の長所であり、その長所を排除することは考えられない。
イナゴによって書かなくなる人の数よりも、匿名性を排除することによって書かなくなる人の数の方が多いだろうから。
質の問題は無視ね。
あと、手間の問題も。
たとえて言えば
イナゴによって畑を荒らされて首をくくる農民よりも、飢え死にするイナゴの方が問題だ
ということか。
http://d.hatena.ne.jp/tksmash/20070615/1181857747
自慰的優越感は、イナゴ化を促進させるものであるが、イナゴ化の根本的な原因にはならない。
とあるブロガーに対して何か言いたいことがあるとする。
こちらが正しい、という自信はもちろんない。
もしかしたら頓珍漢な発言かもしれない。
ブロガーから完全に論破されてしまうかもしれない。
しかし、たとえ論破されたところで、こちらにダメージがあるだろうか?
ブロガーの攻撃は匿名の壁で防がれ、「こちら」にまで届いてはこない。
ならば、「言わない」ことにメリットはない、「言わない」よりは「言う」ほうが確実に良い、ということになる。
そして、増田に書き込んでいる私は、もちろんそうした状況を歓迎している。
発言がしやすいというのは、匿名空間の最大の長所であり、その長所を排除することは考えられない。
イナゴによって書かなくなる人の数よりも、匿名性を排除することによって書かなくなる人の数の方が多いだろうから。
http://anond.hatelabo.jp/20070604013130
そもそも、なぜ英語を学ぶのかから話を始めたい。
英語の先生に通称カトレットという三十歳ぐらいの人があった、この先生は若いに似ずいつも和服に木綿のはかまをはいている、先生の発音はおそろしく旧式なもので生徒はみんな不服であった。先生はキャット(ねこ)をカットと発音する、カツレツをカトレットと発音する。
「先生は旧式です」と生徒がいう。
「それだからきみらはいかん、語学をおさめるのは外人と話すためじゃない、外国の本を読むためだ、本を読んでかれの長所を取りもってわが薬籠におさめればいい、それだけだ、通弁になって、日光の案内をしようという下劣な根性のものは明日から学校へくるな」
(「ああ玉杯に花うけて」佐藤紅緑)
義務教育から高校教育で英語を学ぶ意味とは、簡単な英語の書物を読める事を第一目標とすべきだというのが私の持論。
ネイティブと対等に渡り合えるほど高度な「英会話」スキルを身に付けさせる事は、必ずしも必要ではないように思う。
ただ、英語を学ぶなら学ぶで、教え方はまだまだ改善の余地があるはず。
ちょうど幼児期から漢字に少し慣れさせておけば、小学校に上がった時に、より楽に漢字を覚えられるのと同じで、
幼児期や小学生の頃にアルファベットとか簡単な英単語や簡単な文章程度を教えて少し慣れさせておけば、中学に上がった時に、より楽に英語を覚えられるのでは。
私は塾で中学生を教えてた事があるが、アルファベットすら満足に書けない中学生が時々いた。そういう生徒は、これまで英語に全然触れたことがなく、中学生になって突然英語を習い始めた子が大半。
http://anond.hatelabo.jp/20070524211137
mixiの長所でもあり短所でもある、リアルでの人間関係との直結。
結局なんだか当たり障りのないことしか書けなくなってしまってる。
前付き合ってた彼女とマイミクになってて、別れた後もそのままマイミクのままなんだけど、おかげでいろいろと書きづらいったらありゃしない。
向こうも向こうで、足跡は残ってるから見には来てる様子。
こっちからは行かないけどね。
そして、向こうが個人的に書いてるブログはこっそり覗いてたりする(苦笑)
多かれ少なかれ、人は周囲の自分に対する評価を気にしたり、失敗することを恐れたり、自分を良く見せようと言う気持ちがあると思います。回避性人格障害の人々のこの気持ちが過剰であるため社会生活や人間関係を「回避」します。回避をすれば、自分が傷ついたり、失敗することがありませんので、彼らは家に閉じこもるという選択肢しか持っていません。
というわけで診断基準をはてなー向けに書き換えてみたよ。4つ以上当てはまったらgoto hospitalで。
この記事は下書き。
Operaの長所は何といっても「軽くて多機能」。「軽い」だけでも「多機能」だけでもなく、「軽くて多機能」。
軽さだけならLynxのほうが上だし、機能は無制限に拡張できるFxが最強だが、そのバランスでいえばOperaが一番優れていると思う。
以下、俺がよく使う機能について。事前に設定が必要なものを含む。
思い出したら追加するかもしれない。
元記事を書いたものです。反応有難うございます。
そうなのかもしれません。彼等のことを「ひょっとして何も考えてないんじゃなかろうか」と思ういっぽうで、「偉いなあ。俺にはできない。凄い」とも思います。みんなまるで聖人か何かのように自分を捨てて何かに尽くしているようにも見えます。
ただ、自分にはそれは無理そうだ、という風に諦めてきていますが。。。世の中の多数派から自分のような人間は脱落するしかないかと思っています。
例えば、とてもマイノリティな趣味に没頭していたとする。そこで、「こんな面白いことを知らないなんて、世間は人生損してるぜ」と考えるか、「こんな珍妙な刺激を定期的に得ないと生きられない自分は、人生無駄が多いぜ」と考えるか?
うーん、これは僕は100%前者ですね。「無駄」という風には考えられないかな。むしろそれが「人生の醍醐味」という風に考えてしまう。
言ってる事は何となくわかるけど、「つまらない日常に耐えられる」というのは生物としての長所かもしれない。「これをやりたくてやりたくて仕方がない」とか「これが死ぬほど好きだ」とか、そういった感情を持たなくても淡々となにごとかをこなしていけるわけだから。上から降ってきた作業をこなして、当たり前のように残業することで、一応何かしらの形で誰かに貢献するわけだから。。。。
例えば、とてもマイノリティな趣味に没頭していたとする。そこで、「こんな面白いことを知らないなんて、世間は人生損してるぜ」と考えるか、「こんな珍妙な刺激を定期的に得ないと生きられない自分は、人生無駄が多いぜ」と考えるか? 私は10代の頃なら前者の考え一色だったと思うけど、最近はほんのわずかに後者の考え方が頭をもたげてきている。